第2節 欲望の二重の一致の解消vsトークン・ブッラ
物々交換起源説を支持する学者たちは、物々交換モデルについて、「欲望の二重の一致」とよばれるような、①ニーズが合わないと交換が成立しない、②自分の持っているものが、相手が欲しいものとは限りない、③現在のように値段がついていないわけではないので、交換する物の価値を測るのも非常に難しかった といった点を物々交換経済の課題として挙げています。[xii]
そこでこれらの課題を解決する手段として貝や石、骨が共通して使われ、更にはそれらが耐久性にも優れた金銀などに置き換わったというストーリーです。 しかし思考実験として、例えば私自身が太古の人間だった場合、自分の生きるためにいますぐに欲しいものを周囲の見知らぬ誰かに対して「自分は(ほぼ無価値の)石や貝、骨をもっているので欲しいものと交換してくれないか」という交渉を成立させられる自信は皆無です。 またそもそも石や貝、骨、あるいは金銀にしても、どれだけの量がどれだけの食料や衣類と同じ価値があるという判断は千差万別で、物々交換から原始的なお金への切り替えもそうそう簡単な話ではないでしょう。
グレーバーが指摘した、「物々交換の例がどこかでみつかったという事実はない」 という話もこうした簡単な思考実験からも納得できます。 これに対し、貨幣出現以前に自然に生じそうな状況は、たまたま獲物なり穀物なりを収穫した「持てる人」とそれらが手に入らず空腹を抱えた「持たない人」とが共存する状態です。 そして自分たちが消費するには多すぎるものを持つ人が持たない人から乞われて与え、そこに貸借関係が生じるという状況であり、物々交換仮説が想定するような「万人が、何らかの他人が欲しがるようなものを常に交換対象として持てている」状況ではなさそうです。
実際、メソポタミアの紀元前8000年から紀元前3500年頃の地層からは、借りた羊や牛、パンなどをかたどった「トークン」とよばれる粘土製品が出土しています。また紀元前3700年頃以後の地層からは、こうしたトークンを内包する「ブッラ」(いわば封筒)という中空の球型粘土製品が出土するようになり、その表面には内蔵するトークンの種類や数と借り手の名前がハンコで押されて示され、負債が返済されると、このブッラは破壊されたとされています。労働力を先に提供してくれた労働者に収穫時には収穫した麦の一部で返済するという内容のブッラも発掘され現存しています(図表2.1)。
グレーバーは、これらブッラの中には、長いメソポタミア時代のうちのいくつかの時代、広いメソポタミアの中のいくつかの場所では単純に元の貸主に借りたものを返済するという形ではなく、元の負債の返還の約束が「持参人に宛てられていた」、つまり第三者にも流通する負債-要するに貨幣-だったとしています。[xiii]
ブッラのようなモノの貸借関係の証拠が出土した時代に相前後してメソポタミア最南部にはシュメール人がウルクという世界最初の都市を建設し、数百年メソポタミアの中心だった時代が続きました。当時は広範囲の灌漑農業の発達に伴い多種の穀物が栽培種化され、人口が増加し、支配階級が現れたことで集落から都市国家が生まれてきました。ウルクはその代表的で最古の都市と言え、ここからメソポタミアでは文化が一気に開花していきました。シュメール人は、60進法、月を30日、年を360日とする太陽暦、七曜制、青銅器、ビール、法典などを発明したとされています。
信用貨幣が生まれたと考えられる時代に文字とともに現代にも受け継がれる文明が生まれたことは興味深いことです。
もっとも、グレーバーは貨幣の起源が物々交換とする説は強く否定していますが、彼は貝や金銀が主に貨幣として使われていた時代がまったくなかったとは言っていません。 ユーラシア大陸での過去5000年を振り返ると、貨幣は5000年前の信用システムから生まれたものの、その後は信用貨幣が支配的な時代と、金銀が支配的な時代が何度か交互に繰り返されていて、信用貨幣が廃れて金銀が支配的になる契機のひとつが戦争だと彼はと指摘しています。 つまり金銀が支配的になるのは、中央の統制が弱まり暴力が広まる時代です。それは例えば中国の戦国時代、ギリシャの鉄器時代、インドの前マウリア朝などで、こうした時代には平和な時代に構築されていた信頼関係のネットワークは寸断されてしまう結果、戦乱にも影響を受けず、その質に応じた価値観が共有され、他人でもモノと交換に受領される見込みが高い金銀硬貨が信用システムより人びとに信頼される時代もあった、というわけです。 [xiv]
0 件のコメント:
コメントを投稿