2026年10月2日金曜日

シェイブテイルさんによるXでのポスト

<a href="https://x.com/shavetail/status/2105845700080881962?s=58">https://x.com/shavetail/status/2105845700080881962?s=58</a> 閉鎖国を想定するとその一部門では 貯蓄 S=投資 I+金融資産純増(⊿A-⊿L) …① 但し全ての部門を通じた金融資産は負債で相殺されるため⊿A=⊿L…② ④に⑤を代入すれば  S=I 古川顕「現代の金融」p23 補論I より これを最初から「マクロではS=I」を出発点にすると貨幣がみえなくなってしまう。

2026年10月1日木曜日

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える|にゅん

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える

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 マガジン「シュミット経済学」。

 このエントリは、「コラム篇」のひとつとして、シュミットの著書 Inflation, Unemployment and Capital Malformations (『インフレーション、失業、資本の奇形』)を読んだ感想として書き始めたのだが(前編はこちら)、読み終えた今思えば、内容的にこれは、シュミットの理論に取り組む者が押さえておかなければならないガチ理論だよな、ということで「理論篇」に入れる。

「〇〇さんは社会にいらない」という考え

 自分では動かしようもないほど巨大に見える世界を前にした「たじろぎ」が、自己に向かうと、やがて「自分はこの世界に不要」という考えに至る。

 よくない。

 同じそれがもし他者に向かうとき、「この○○さんは社会に不要」という考えに至るだろう。

 それもよくない。

 何とかならないの?、という話になっていく。

 インフレーションと失業はもちろん問題だが、資本主義社会の根底の問題はこの「人間疎外」ではなかろうか。

貨幣の構造は、なぜ人を無力にするのか

 ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に、ベルナール・シュミットの名前が出てくる。

 ドゥルーズ=ガタリとは、哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共同名義で、『アンチ・オイディプス』はその代表作のひとつでだ。

 かなり癖の強い本だが、資本主義を「貨幣や欲望の流れ」として見る点で、シュミットの貨幣論と重要な接点を持っている。

 そこで参照されていたのは、シュミットの1966年の『Monnaie, salaires et profits(貨幣・賃金・利潤)』である。

 『アンチ・オイディプス』の刊行は1972年だから、わずか6年前の本である。

 当時シュミットはまだ、のちに1984年の『インフレーション、失業、資本の奇形』で本格化させる議論には到達していない。それでもドゥルーズ=ガタリは、この1960年代の貨幣論に、資本主義を別の角度から見る手がかりを見つけていた。

 それは、資本主義の支配を「資本家が労働者を支配する」という人格的な関係だけでは説明できなくする貨幣論だった。

二種類の貨幣

 『アンチ・オイディプス』の資本主義論では、「流れ」が重要概念だ。

 資本の流れ、貨幣の流れ、労働の流れ、欲望の流れ。

 単に、「流れ」と言うだけなら哲学的な比喩で終わるところだが、ドゥルーズは1971年の講義でもシュミットの貨幣論をかなり詳しく取り上げていた。

 銀行が企業に信用を供与するときの貨幣と、賃金として労働者に支払われた貨幣とは、同じ通貨単位で表示されていても、経済的な働きが同じではない。

 銀行信用としての貨幣は、企業に経済活動を開始する能力を与える。
一方、賃金として分配された貨幣は、所得となり、商品の購買力になる。

 ドゥルーズはここに、同じ「貨幣」でありながら異なる puissance――力 を持つ二つの流れを見た。1971年の講義では、金融の側の貨幣を「経済的力の記号」、賃金の側を財を取得するための支払手段として対比している。

 単純化すれば、銀行・企業側の「100」と、所得として手元に入る「100」は、数字としては同じでも、経済の中で果たす役割が違う。

 ここにドゥルーズ=ガタリは、資本主義を構成する二つの非対称な貨幣フローを見た。

「誰が盗んだのか?」

 『アンチ・オイディプス』は、利潤をめぐる(マルクス的な)問いの立て方をずらしている。

 シュミットの理論を使って利潤形成を考えると、

 「では誰が誰から盗んだのか?」

 という問いには、きれいに答えられなくなる。

 金融資本家が貨幣を盗んだわけではない。
 銀行が企業に与えた信用は、誰かから取り上げた既存の所得ではない。
 労働者についても、賃金支払いそのものによって購買力が形成される。したがって、あらかじめ存在した購買力で労働者が「買われた」という構図にもならない。
 産業資本家についても、利潤を単純に誰かの財布から取り上げたものとして説明することはできない。

 『アンチ・オイディプス』は、

“Who is robbed?”(誰が奪われたって?)

 と問う。

 そして、その問いをモーリス・クラヴェルの「誰が疎外されているのか」という問いと重ねる。

 問いが宙に浮く。

 いや、『アンチ・オイディプス』はさらに進んで、「誰も奪われていない」とまで言う。

 盗んだ主体も、盗まれた主体も、疎外する主体も、疎外される主体も、はっきり名指せない。

 それでも、賃金として受け取られる貨幣と、資本を動かす貨幣とのあいだには、明らかな力の差がある。

 これが彼らの資本主義像だ。

支配する人がいなくても、支配は成立する

 つまり

資本主義の支配には、支配する主体が必ずしも必要ではない。

 (いちおう、これは筆者 nyun による定式化だということを断っておこう)

 経営者は利益率を見て動く。銀行は貸した金が戻るかどうかを見る。労働者は所得を得るために働く。投資家は、より高い収益率を探す。

 それぞれの主体は、それぞれの位置から見ればかなり合理的に行動している。

 ところが、個々の合理的な行動を積み重ねた結果として、失業、競争、不安、人間の市場評価が生まれることがある。

 誰も「社会をこうしよう」と決めていない。

 それでも全員が、誰も全体を支配していない機構に従わされる。

 支配するものが、特定の人間から、社会関係そのものへ移ってしまう。

ドゥルーズ=ガタリにとってのシュミット

 ドゥルーズ=ガタリがシュミット主義者ということではない。

 彼らは、シュミットとマルクス経済学者のスザンヌ・ド・ブリュンホフ(Suzanne de Brunhoff)を大胆に重ね合わせる。

 ところでシュミットもブリュンホフも日本ではほぼ知られてない、という点にぼくは興味をそそられるが、それは措くとして(笑

 ブリュンホフは、マルクスの貨幣論を、単なる交換手段の理論としてではなく、資本主義社会を成り立たせる制度の理論として読んだ、らしい。

 貨幣は市場で商品を買うための便利な道具ではない。国家、銀行、信用、支払い、蓄蔵、労働力の再生産と結びついた、かなり厚みのある社会的装置だというわけだ。

 ブリュンホフはあくまでマルクスの問題系から、貨幣と国家、信用、資本の再生産を考える。シュミットはもっと会計的・銀行論的なところから、貨幣発行、所得形成、資本の病理を追っていく人だ。

 だから『アンチ・オイディプス』は、二人をきれいに整理して並べているというより、ちょっと無理をして接続している感じがしないでもない。

 哲学者クリスチャン・カースレイク(Christian Kerslake)の詳細な研究も、『アンチ・オイディプス』ではブリュンホフとシュミットが「織り合わされて」おり、シュミットの理解には誤読と思われる部分もあることを指摘している。

 カースレイクが引用する1971年の講義で、ドゥルーズはシュミットを、本人の意図とは無関係に「完全に分裂症的な経済理論」を作り出してしまった経済学者として扱っている。

 そして『アンチ・オイディプス』の終盤(AO 374/449)では、シュミットについて、「現代の経済学者の中で(シュミットは)狂気じみた経済システムに対して狂気じみた解釈を最後までやり切るという「比類のない利点」がある」、とまで評している。

 “among modern economists, [Schmitt] has for us the incomparable advantage of offering a delirious interpretation of an unequivocally delirious economic system (at least he goes all the way)”

 まったく、そうだねえ。

 問題なのは、シュミットの理論の奇妙さよりも、現代の貨幣経済そのものの奇妙さ、なのではないか。

 ドゥルーズ=ガタリの書き方は、その境界をわざと曖昧にしているように見える。

1984年のシュミットへ

 ここで時系列を飛ばす。

 1972年のドゥルーズ=ガタリは知るはずもないが、シュミットはその後、貨幣と資本の分析をさらに進める。

 1984年の『インフレーション、失業、資本の奇形』は、インフレと失業を、人々の行動の失敗として説明することを拒否する。

 家計が悪いのでもなく、企業が強欲だからでもなく、予想を間違えたからでもない。

 シュミットの表現では、経済の病は

“a blind mechanism that overpowers everybody”

 から生じる。

 「万人を圧倒する盲目的な機構」。

 これが1966年の貨幣論を読んだドゥルーズ=ガタリが嗅ぎ取っていたものと、重なる。

病理は姿を変える

 シュミットの1984年の議論を、貨幣と実物の勘定を一段ずつ追う形で読み直してみると、病理は一つの姿で残るわけではないことが了解されていく。

 まず、固定資本の償却にかかわる生産によって所得が形成されるが、もちろん、これは病理ではない。

 しかし、その所得保有者が通常取得できる財との対応に異常が生じる。

  すると、empty wages――対応する生産物を通常には取得できない所得――が生じ、その結果、取得可能な財に対する超過購買力が生まれる。

 それは価格を押し上げ(インフレーション)、それが企業側では貨幣利潤として現れる。

 さらにその利潤が資本形成へ入り込むと、病理は貨幣のフローから資本ストックへ移る。

 いわば、フローの病理が、資本ストックの病理へ移っていき、これが capital malformation(資本の奇形)につながる。

 そして病理的な資本蓄積が繰り返されれば、労働・現実の生産に対して維持すべき資本が過大になっていく。

 その結果、生産的投資の収益性が落ち、失業が生じる。

 インフレーションと失業が、誰かの行動ではなく、構造的な貨幣的障害から説明される。

 タイトルの通りだった!

「あなたは必要ない」

 これを人間の側から考えてみよう。ここからは、シュミット自身の分析を少し越える。

 失業した人が働けないのは、働く能力がなくなったからとは限らない。

 社会に必要な仕事がなくなったわけでもない。

 介護も、教育も、子育ても、環境保全も、地域の仕事もある。

 それでも資本の計算から見れば、

その労働を使用しても必要な収益率を得られない

 ということがある。

 そこで人間は、資本からこう告げられる。

 「あなたはいらない」

 しかし正確には、

 「社会にあなたが必要ない」

 のではなく、

 「現在の資本評価のもとでは、あなたの労働を使用できない」

 だけである。

 ところが、その二つは容易に混同される。

 資本による評価が、いつの間にか社会による評価に見え、さらに自分自身の評価へと内面化されていく。

 そして「仕事がない」が、「自分には価値がない」へ変わる。

 「疎外」という言葉が、かなり具体的なものになる。

疎外が「最大の症状」という読解

 というわけで、シュミットの技術的な病理、つまり empty emissions、その経済的な帰結としてのインフレ、capital malformation、失業への連鎖を、人間の側から見れば、人間自身が作った資本制度によって、人間が社会的労働から排除される、というところまで行く。

 こうして

 疎外をシュミットの病理論における最大の社会的症状として読む

 ことが可能になる。

 1972年の時点ですでにドゥルーズ=ガタリが、1966年のシュミットを「誰が疎外されているのか」という問いの近くに置いていた。

 さらにシュミット自身も後にチェンチーニ(Cencini)との共著『La pensée de Karl Marx. Critique et synthèse』を書く。

 ぼくはもっと前のシュミットにも興味が湧く。

シュミットは、分析で終わらない

 人間が作った制度が人間を支配する。

 そこまでなら「疎外」の診断で終わる。

 ところがシュミットは、どの制度操作がその病理を生み出しているのかを探し出した。

 そして、銀行活動を三つの部門に分離する改革案まで提示する。
 
 ここが重要だ。

 シュミットは、経済の病を「万人を圧倒する盲目的な機構」と呼んだ直後に、その治療法として銀行活動の三部門化を提示している。

 つまり彼にとって、この盲目的な機構は、文明一般でも、人間の業でもない。少なくともその核心部分は、変更可能な制度として特定されている。

 「人間の意識を変えよう」でも、「善良な資本家になろう」でもない。病理を生み出している制度そのものを変更しようとするのである。

 もしシュミットの診断が正しいなら、これはかなり珍しい疎外論になる。

 疎外を哲学的に告発するだけではなく、その一部について、「銀行の勘定体系をこう組み替えれば、この病理は発生しない」と制度設計まで提示するからだ。

それでも残る問題とMMT

 もちろん、銀行制度を変えれば人間の疎外がすべてなくなる、とは考えにくい。

 ドゥルーズ=ガタリが問題にした社会機械は、銀行だけではなく、企業、国家、家族、学校、消費、地位、アイデンティティ、欲望そのものまで含んでいる。

 さらに現実には、シュミットの病理とは独立した失業も考えなければならない。

 MMTを知っている人は、ここで、あの制度が思い浮かばないだろうか。

 Job Guarantee Program(JGP、雇用保障制度)である。

 シュミットの改革が、資本の病理によって人間が不要化されることを防ぐ制度だとすれば、JGPは、民間資本に雇われないことと、社会に必要とされないことを切り離す制度だ。

 民間市場だけでは十分に供給されない介護、教育、環境保全、地域活動であっても、そこには社会的な生産がある。

 そこでは所得だけが生まれるのではない。労働と同時に、社会的な生産物やサービスも生まれる。

 人間の社会的有用性を、民間資本の収益性だけに委ねない。

 そう考えるなら、シュミットの改革とJGPの組み合わせには、単なるインフレ対策や雇用政策以上の意味が出てくる。

 前者は、人間を不要化する資本の病理そのものを防ぐ。
 後者は、それでも市場からこぼれる人を、社会的労働から排除しない。

 この二つを合わせると、「資本に必要とされること」と「人間として社会に必要とされること」を切り離す制度構想として位置づけることができる。

再度、『アンチ・オイディプス』

 ドゥルーズ=ガタリが、なぜ人々が自分たちを従属させる社会的配置そのものを欲望するのか、と問うたとすれば、シュミットは別の方向から、なぜ人々の意図とは無関係に、経済制度が人々を圧倒する力を持ってしまうのかを追った。

 資本主義の支配を、「悪い誰かが、弱い誰かを支配する」という物語だけで考えない。

 誰も全体を望んでいないのに、その全体が成立する。

 誰も完全な主人ではないのに、人間を従わせる機構が存在する。

 その意味で、「支配者のいない支配」という問題がある。

 そしてもしその支配の一部が、具体的な貨幣制度の構造から生じているのなら、それは運命ではない。

 制度なら、変えることができる。

 ぼくがシュミットを読んでいて何度も驚かされたのは、まさにこの点だった。

 とくに、インフレーションと利潤の理解である。

 インフレーションは、ただ物価が上がる現象ではない。利潤も、単に誰かが誰かから奪った取り分ではない。

 少なくともシュミットにとっては、貨幣と生産物との対応が壊れ、所得と資本の関係が歪み、その歪みがある局面では価格上昇として、別の局面では貨幣利潤として、さらに別の局面では失業として現れる。

 そう読んだとき、インフレ、利潤、失業は別々の問題ではなくなる。どれも、人間の行動の失敗というより、貨幣制度の内部で生じる病理の別の現れになる。

 ここに何度も驚かされた。

 ぼくが深入りしてしまう理論は、そういうやつだけだ。

 わかってしまえば、極端にむつかしい理論ではないと思う。
シュミットがこの理論の骨格を作った1960年代には、もちろん今のようなパソコンも表計算ソフトもなかった。

 今なら、彼が文章と図で説明していたことを、勘定を一段ずつ動かしながら表現できるはずだ。

 何とかそこまで持っていきたい。


おまけ

 なお、資本奇形のイメージについては、ぼくは最初、癌細胞の増殖のようなものを想像していたのだが、癌よりも線維症というのが近いようだ。

 正常な修復反応が慢性的に繰り返されることで、病的な組織が蓄積し、臓器機能が低下していく。シュミットの資本奇形も、正常な資本更新そのものが悪いのではなく、その貨幣的処理の異常が繰り返されることで、資本ストックに病理が蓄積していく。

 長くなるので、この比喩は、また別に書こう。

 今言いたいのは次のことだ。

 できあがった理論そのものはドゥルーズ=ガタリが言うほど狂気じみているわけではない。

 線維症のメカニズムの話を見聞きして、それが理解できる人ならば、シュミットの理論もおそらく理解できる。

 現代のわれわれには、そこまで大したことはない!\(^o^)/


参考文献メモ

  • Bernard Schmitt, Monnaie, salaires et profits, 1966.(リンク)

  • Gilles Deleuze / Félix Guattari, L’Anti-Œdipe: Capitalisme et schizophrénie 1, Éditions de Minuit, 1972.(公式ページ)

  • Gilles Deleuze, Seminar on Anti-Oedipus I: Logic of Flows, 1971–1972.(講義録)

  • Bernard Schmitt, Inflation, chômage et malformations du capital, 1984. 英訳 Inflation, Unemployment and Capital Malformations, Routledge, 2021.(リンク)

  • Christian Kerslake, “Marxism and Money in Deleuze and Guattari’s Capitalism and Schizophrenia: On the Conflict Between the Theories of Suzanne de Brunhoff and Bernard Schmitt”, 2015.(リンク)

2026年9月29日火曜日

プライベート・エクイティ資本主義が世界を食い尽くす eBook : ブレンダン・バルー, 鈴木 正徳: Kindleストア

 


プライベート・エクイティ資本主義が世界を食い尽くす 


医療、住宅、小売など私たちの生活に浸透するプライベート・エクイティ(PE)。
ビジネスモデルや手法を解説するのみならず、代表的、象徴的なターゲット業種に焦点を当てて、豊富な事例を検証。
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2021年、PEは、GDPの約5パーセントに相当する、1.2兆ドルもの企業買収を行った。 そのターゲットは幅広く、スーパーマーケットなどの小売業者から、飲食店、賃貸住宅、医療機関、介護施設、果ては大学や刑務所にいたるまで触手を伸ばしている。
もはや、「知らぬ間にPEに囲まれて暮らしている」と言っても過言ではない状況だ。
そして、金融危機の火種として最近注目を集めている「プライベート・クレジット」 の担い手も、やはりPEである。
本書は、PEが庶民の生活にいかに広く深く食い込み、悪影響を及ぼしているか、そしていかに格差拡大やシステミックリスク拡大に寄与しているかを明らかにしていく。 
PEのビジネスモデルや手法を解説するのみならず、PEの代表的、象徴的なターゲット業種に焦点を当てて、豊富な事例を検証。 
また、さまざまな政府機関がPEの所業を黙認あるいは後押ししてきたことを暴露する。 
最後に、いわば「PE資本主義」ともいうべきものをどのように修正すべきか、提言する。

【主な内容】
序論  富の独占、再び――われわれは残酷な「第2次金ぴか時代」に生きている

【第1部 彼らはいかにして富を吸い上げるのか】

第1章 他人の金で儲ける――失敗しても損失は軽微、成功すればリターンは無限大

第2章 持ち家の夢を打ち砕く――戸建て住宅を大量購入し、賃貸住宅化して家賃をつり上げる巨大悪徳家主

第3章 トイザらスの倒産は本当にアマゾンのせいだったのか――買収先企業を破産に追い込んで、骨の髄までしゃぶり尽くす

第4章 高齢者の命を蔑ろにして儲ける――極限まで人員削減された「危険な介護施設」と、狡猾な責任逃れの手口

第5章 医療の質より目先の利益――あなたの健康と財布を脅かす医療現場の乗っ取り

第6章 次の金融危機の主役に名乗りを上げる――時限爆弾は年金、保険、プライベート・クレジット

第7章 逃げ場のない「究極の顧客」――刑務所ビジネスで暴利をむさぼる

【第2部 ルールを書き換える――法律と政治を操る巨大な影響力】

第8章 弱者を狙い撃ちし、法廷で狩る――自分たちは裁判を起こせるが、相手は起こせない強制仲裁の罠

第9章 公共サービスを破壊する――水道、救急、消防が彼らに売り飛ばされた、民営化の悲惨な結末

第10章 カネで政治家を買う――議会を意のままに操る「最強のロビー活動」

【第3部 怪物にどう立ち向かうか――公正な社会を取り戻すために】

第11章 われわれがなすべきこと――彼らの横暴を許してきたわれわれこそが、それを止めることができる

第12章 行動を起こそう――公正な社会を取り戻すための処方箋

  • 星5つ中5つ
    あらゆる人がその実態を理解する必要がある
    2026年9月20日に日本でレビュー済み

    元連邦検察官による極めて丹念な調査・情報収集に基づく分析。PEは日本でもかなり存在感を高めてきており、米国における惨状はもはや対岸の火事ではない。短期的な収益を求めてあらゆる領域に触手を伸ばすという生態から、あらゆるセクターの多くの人にこの実態を理解してもらいたいと感じた。

    本書に登場するPEの典型的な手法を以下に紹介する:

    ①不動産のリースバック:買収対象企業の不動産を即座に売却させ売却益を吸い上げた上、リースバックし、対象会社に賃料を永続的に支払わせ続ける

    ②配当リキャピタリゼーション:買収先企業の借金を原資にPEへの配当を強要する

    ③戦略的破産:従業員、退職者、債権者への債務支払い回避

    ④提携の強制:PEの保有する企業との取引の強要

    ⑤租税回避:2&20の成功報酬20%はキャピタルゲイン扱い、タックスヘイブンの活用

    ⑥ロールアップ(買収・集約):競争の削減を通じた寡占・独占によって消費者に対する価格引き上げ、従業員に対する賃金引き下げ

    ⑦経営効率改善:レイオフ、品質カット、値上げ

    PEによるLBOを通じて買収された会社の20%が10年以内に破産している(買収されなかった会社の破産率は2%)。筆者は、繰り返し「潤沢なキャッシュフローのあるビジネス」と「サービスを受けることに選択の余地のない囚われの聴衆」の組み合わせがPEのターゲットとなっていると指摘している。具体的には、小売・不動産賃貸・病院・救急・消防・介護施設・水道・刑務所・大学などが挙げられている。

    米国に端を発した世界金融危機の後にゴールドマン・サックス等の投資銀行に代わって金融経済を主導してきたのがPEであり、近年ではプライベート・クレジットバブルも作り出している。本書を通じて米国社会の惨状を目の当たりにすることになるが、これほどの惨状になるまで米国内で社会的な問題にならないのだろうかと思ってしまう。トランプ2.0を生み出した社会的分断の背景にもPEの活動拡大があると思えてならない。

    3人のユーザーが役に立ったと感じています
  • 星5つ中5つ
    PEファームを本来の役割に引き戻すために
    2026年9月16日に日本でレビュー済み

    この本から抜粋したWEB記事に、”私たちがやるべきことは、資本主義そのものを打倒することでも、金融業界全体を否定することでもない。PEファームを本来の役割「企業に成長資金を提供する、地味で退屈な存在」へと引き戻すだけでよい”とあったが、まさにその通りと思う。健全な形での資本主義社会を維持しなければ、社会そのものが崩壊してしまう。

    2人のユーザーが役に立ったと感じています
  • 星5つ中5つ
    行き過ぎたアメリカの資本主義の実態
    2026年9月2日に日本でレビュー済み

    行き過ぎた資本主義の醜悪な実態を米国のプライベートエクイティに焦点を当てて膨大なデータと共に暴いた執念の力作。100%鵜呑みにする必要はないと思い、かつある程度弱肉強食の世界であることは理解するものの、政治家も制御出来ないパワーとなっている状況に恐怖心すら覚える。最後の「私たちにできること」の筆者のメッセージのアメリカ人の強さみたいなものが救いとなった。これだけ複雑で専門的な内容に対して丁寧で違和感のない自然な翻訳も秀逸

2026年9月25日金曜日

豊田章男会長の戦略は正しかった…「パリ市内を走るタクシーの大半が日本のハイブリッド車」という衝撃事実 まともなハイブリッド技術を持たない欧州メーカーは冬の時代を迎える (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

豊田章男会長の戦略は正しかった…「パリ市内を走るタクシーの大半が日本のハイブリッド車」という衝撃事実 まともなハイブリッド技術を持たない欧州メーカーは冬の時代を迎える

豊田章男会長の戦略は正しかった…「パリ市内を走るタクシーの大半が日本のハイブリッド車」という衝撃事実 まともなハイブリッド技術を持たない欧州メーカーは冬の時代を迎える

パリ市内にはなんと、トヨタMIRAIタクシーが1500台

トヨタの燃料電池車(FCEV)であるMIRAIのタクシーも、かなりの台数を目撃した。MIRAIは東京で見かける頻度より圧倒的に多い印象である。

これはパリオリンピックの公式スポンサーだったトヨタが500台のMIRAIを大会に提供したのだが、そのすべてをパリのタクシーに転用したのも一因である。

それ以前からトヨタは、フランスの水素供給業者と組んでMIRAIのタクシー整備を進めており、現在では1500台のMIRAIタクシーがパリを走っているという。

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2026年8月22日土曜日

元財務官僚が明かす「消費税は社会保障のため」というウソ たるとさんによるXでのポストhttps://x.com/tarutora17/status/2091084930143121781/video/1?s=61

 たるとさんによるXでのポスト


https://x.com/tarutora17/status/2091084930143121781?s=61



国民も議員も官僚に騙された!!


元財務官僚が明かす「消費税は社会保障のため」というウソ


深田萌絵さん

「国民を騙してばっかり…」


元財務官僚

「普通だったら良心の呵責を感じるはずなんですけどね…」


#消費税法 #充てるものとする


https://youtu.be/13rUzDEy0qI



三橋貴明氏も同様の指摘(引用P)

https://x.com/tarutora17/status/2091084930143121781?s=61


2026年8月13日木曜日

1551回 国債をNISA対象に!財務省と金融機関によって虐げれれてきた国債の歴史

黄金株は日鉄側から提案、橋本会長「やりたいことを阻害されない」…2兆円でUSスチール買収 : 読売新聞

黄金株は日鉄側から提案、橋本会長「やりたいことを阻害されない」…2兆円でUSスチール買収 : 読売新聞

黄金株は日鉄側から提案、橋本会長「やりたいことを阻害されない」…2兆円でUSスチール買収

 日本製鉄は19日、米鉄鋼大手USスチールの完全子会社化について記者会見を開いた。橋本英二会長兼CEO(最高経営責任者)は「米製造業に強力なサプライチェーン(供給網)を構築する」と決意を示した。141億ドル(約2兆円)と巨額なうえ、米政府に黄金株を与える異例の買収内容だが「経営の自由度と採算性は確保されている」と強調した。

 日鉄は2028年までにUSスチールに約110億ドルを投じ、老朽設備の更新や、製鉄所の新設に取り組む。日鉄の森高弘副会長がUSスチール会長を兼任し、日本から40人弱の社員を派遣する。日鉄によると、米国の鋼材需要は日本の約2倍といい、橋本氏は「設備投資はUSスチールの企業価値を高めるのに必要かつ有効なものばかりだ」と説明した。

 米政府と締結した国家安全保障協定に基づき、USスチールは、重要事項に拒否権を持つ黄金株1株を米政府に発行する。設備投資の 進捗 しんちょく を確認したいという米政府の意向に沿い、日鉄から黄金株を提案したという。橋本氏は「(日鉄が)やりたいことを阻害されることはない」と述べ、経営への過度な影響は避けられるとの見方を示した。

 日鉄は23年12月にUSスチールの買収を発表。今年1月にバイデン米大統領(当時)が安全保障上の懸念を理由に禁止命令を出すなど日米の外交問題に発展し、計画発表から買収完了まで1年半かかった。

近代的貨幣制度の興隆:信用貨幣アプローチと国家貨幣アプローチの統合       著:L・ランドール・レイ|KEITA

近代的貨幣制度の興隆:信用貨幣アプローチと国家貨幣アプローチの統合       著:L・ランドール・レイ|KEITA

近代的貨幣制度の興隆:信用貨幣アプローチと国家貨幣アプローチの統合       著:L・ランドール・レイ

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ChatGpt-4oによるレイのワーキングペーパーの翻訳。
原文はこちらhttps://www.levyinstitute.org/pubs/wp_1076.pdf 

ChatGpt-4oに翻訳を行わせて解ったのは、特に指示を与えることなく訳を行わせると、勝手に要約し始めるので、要約せずに原文に忠実に直訳するように指示した。
余りにもおかしい訳は指摘して訳し直させたりはしてますが、9割方1回目の訳を採用してます。

要旨
本稿は、ポスト・ケインズ派の内生的貨幣理論に関連する「信用貨幣アプローチ」と、現代貨幣理論(MMT)に関連する「国家貨幣アプローチ」とを統合するものである。統合にあたっては、レイ(Wray)の1990年の著書 『資本主義経済における貨幣と信用:内生的貨幣アプローチ』(エドワード・エルガー)、1998年の著書 『現代貨幣の理解:完全雇用と物価安定の鍵』(エドワード・エルガー)、および2004年の編著 『信用と国家の貨幣理論:A・ミッチェル・イネスの貢献』(エドワード・エルガー)を参照する。貨幣の歴史に関する新たな資料と解釈を通じて、国家貨幣と民間の信用貨幣の間には矛盾がないことが明らかになる。それぞれが現代の貨幣システムの構築に役割を果たしてきたのである。実際、今日の貨幣システムは、国家貨幣を民間の貨幣循環に組み込むことで創り出され、両者が強化された結果である。

キーワード:信用貨幣、国家貨幣、現代貨幣理論(MMT)、イングランド銀行、不換貨幣、循環貨幣、貨幣の歴史、中央銀行、ノミナリズム、貨幣の起源

序論:貨幣の起源に関する別の解釈

経済学者たちは長らく、貨幣の起源について物々交換説を唱えてきたが、これは歴史的・人類学的証拠と一致しない(Dalton 1982)。また、理論内部の整合性も欠いている(Levine 1983; Wray 2004)。では、貨幣が物々交換をコスト削減のための代替手段として生まれたのではないとすれば、その起源は何だったのだろうか?もちろん、その起源を決定的に特定することは難しい。著名な貨幣学者グリエルソン(Grierson 1977)は次のように述べている。「貨幣の起源を研究する際には、初期の言語、文学、法に基づく推論に大きく依拠せざるを得ないが、現代の非西洋社会における『原始的な』貨幣の使用に関する証拠も考慮しなければならない。もっとも、こうした証拠は慎重に扱う必要がある」(12頁)。さらに彼は、貨幣の歴史が貨幣(コイン)の歴史よりはるかに複雑であることも認識している。貨幣を使用していなかった社会にまで貨幣を見出そうとする危険があるからだ。「ある社会が貝殻やその他の物品を『貨幣』として使用していたとしても、その社会が必ずしも貨幣経済であったとは限らない!」(13頁)。

そもそも、経済学者が貨幣の定義についてすら合意するのは難しく、貨幣にはいくつかの異なる機能があることが広く認識されている。貨幣の重要な機能とされる要素によって、異なる貨幣の歴史が見えてくる可能性がある。多くの経済学者(および歴史学者・人類学者)は、交換媒介としての貨幣の進化を追跡しようとするだろうが、本稿の関心は会計貨幣の起源にある。なぜなら、貨幣の起源はこの会計貨幣にある可能性が高いからである。貨幣の現代的な機能と経済における役割を理解するためには、この点が本質的に重要である。証拠が示すのは、貨幣は交換を容易にするためではなく、会計における単位として、帳簿をつけ、債務を計測するために創られたということである。

古代貨幣についての分析の中で、ケインズは紀元前3千年紀にはバビロニアで「非常に高度な」貨幣の使用が確認できると論じている。彼は、ソロン(紀元前590年頃)やピドン(紀元前7世紀)の貨幣制度改革について詳細に調査しているが、これらの貨幣の価値は紀元前3000年、あるいはそれ以前にまで遡る重量単位に基づいていた。ケインズは次のように主張する。「西洋文明における基本的な重量基準は、その最初期からメートル法の導入に至るまで一度も変更されていない」(1930, 239頁)。例外なく、「古代から中世にかけてのバビロニア、地中海沿岸地域、ヨーロッパにおけるすべての重量基準は、小麦粒または大麦粒を単位としてきた」。ミナやシェケル、ヨーロッパのポンドやリラといった貨幣単位はいずれも、小麦粒または大麦粒の重量単位に基づいており、通常、金の名目価値は小麦単位で、銀の名目価値は大麦単位で測定されていた。

したがって、貨幣単位は重量単位に由来しているように見えるが、その価値が貴金属に由来しているわけではない。では、なぜ重量単位が採用されたのだろうか?単に、既知で客観的な基準として都合が良かったからなのか?それとも、小麦や大麦粒が貨幣単位の基礎として選ばれた背景には、より具体的な理由があったのか?幸いなことに、メソポタミアには、文字と貨幣の発展について約1万年にわたる連続した記録が残されている。そしてこの二つの歴史は密接に結びついている。シュマント=ベッサラ(Schmandt-Bessarat 2014)の説明によれば、文字は数を数える体系から発展したとされる。

「メソポタミアの楔形文字は、先史時代の紀元前8千年紀にまで遡ることができる。この時期には、粘土製のさまざまな形のトークンを用いた計数体系が存在していた。トークンから文字への発展を辿ることで、文字が計数と会計から生まれたことが明らかになる。文字は、紀元前3千年紀にシュメール人が来世への関心を高め、墓碑銘に文字を用いて文学の発展への道を開くまでは、会計のために独占的に使用されていた。トークンから文字への進化は、データの抽象化の継続的な進展を示している。具体的な三次元のトークンから、二次元の絵図、抽象的な数の発明、音節文字へと進み、紀元前2千年紀には、アルファベットによる音素の表現という究極の抽象化に至った」

要約すると、文字は会計係が債務を記録するために発明したものであった。最初は、ヤギならヤギ、麦の籠なら麦の籠と、数える対象を模したトークンで記録していたが、やがて粘土にトークンを押し付けることで記録するようになった。これが文字の最初の形である。次に、粘土にペン型の道具で記号を刻むようになり、トークンそのものが不要になった。そして次第に記号が洗練され、今日知られている楔形文字の粘土板へと発展した。重要なのは、これら最初期の粘土板が貸借の記録であったことである。最初の文字記録から文学的な文章が登場するまでには約4000年を要し、さらに口語に近い文章を書くためのアルファベットが生まれるまでにはさらに1000年かかった。

この文字の発明には、過去1万年の人類史で最も重要とも言える、飛躍的な概念的転換が必要だった。同様に、ヤギや麦の籠といった具体的なモノを債務として記録することから、貨幣単位で債務を計測するという発想の転換も、同等に困難であったはずである。長さ・体積・重量の単位は、標準化に合意することで比較的容易に確立されたが、貨幣単位ははるかに複雑だった。粘土板に記された記録が示すのは、少なくともメソポタミアでは、約5000年前にこの課題が達成されていたという事実である。偶然にも、グレーバー(Graeber 2012)の著書『負債論』が「最初の5000年」と題されているのは、この歴史を反映している。

国家の役割と貨幣の本質に関する理解への示唆

歴史的証拠が示すのは、最も初期の時代から、多くの商取引が即時に媒介物を用いて支払いを行うのではなく、貸借関係に基づいて行われてきたということである。イネス(Innes 1913)は初期のヨーロッパの事例について次のように記している。「何世紀にもわたり、どれほど長い期間かは定かではないが、商取引の主要な手段は硬貨でも私的な代用貨幣でもなく、タリー(tally)であった」(1頁)。タリーとは、「四角形に削られたハシバミの木の棒で、購入額や負債額を示すために特定の方法で刻み目がつけられたものである」(394頁)。これは、買い手が売り手から財やサービスを受け取る際に、売り手が自動的に債権者となり、買い手が債務者となることで作成された。ハシバミの木が特別なものだったわけではなく、木製のタリー以外の記録も存在していた。やがてタリーは「譲渡可能な交渉手形」として流通するようになり、タリーの「ストック(stock)」を渡すことで財やサービスを購入したり、自らの負債を返済したりできるようになった。「タリーによって、あらゆる財の購入、金銭の貸し借り、負債の清算が行われたのである」(Innes 1913, 396頁)。

仮に、商取引の多くが貸借に基づいていたとしても、それだけでは教科書的な貨幣起源説が誤りであることを証明するには不十分かもしれない。タリー(やその他の債務記録)よりも前に硬貨が存在していた可能性もあるし、硬貨が貴金属で作られていたのも事実である。あるいは、債務が硬貨に兌換されるよう定められていた可能性や、法定通貨の硬貨でのみ債務契約が法的に執行可能であった可能性も考えられる。この場合、貸借関係は単に硬貨の代替手段にすぎず、最終的に債務の清算は硬貨で行われることになり、教科書的な説明と矛盾しない。しかし、この解釈にはいくつかの問題がある。

第一に、粘土板に記録された債務は、最古の硬貨が出現するよりも少なくとも2000年も前に遡る。第二に、経済史家たちが長年抱いてきた謎として、初期の貴金属貨幣の額面が一般の商取引に使うには高額すぎるという点がある。例えば、最古の貨幣はエレクトラム(銀と金の合金)で作られていたが、最も一般的な額面の購買力はおよそ羊10頭に相当したため、「小口取引には到底便利な硬貨とはいえない」(Cook 1958, 260頁)とされる。また、硬貨の名目上の価値が貴金属含有量によって厳密に管理されていた形跡もほとんどない。そもそも、商取引を促進する目的で硬貨が発明されたとは考えにくい。なぜなら「商業的利益を追求していたフェニキア人や東方の民族は、何世紀もの間、硬貨なしで問題なく取引を行っていた」(260頁)からである。実際、多くの場合、硬貨の導入は非効率的な選択であったと考えられる。

さらに注目すべきは、比較的最近まで、硬貨には額面が刻印されていなかったという点である。名目上の価値は、例えば中世の町で「呼び立て人(town-crier)」が口頭で宣言し、必要に応じて変更していた。このような慣行は、硬貨の価値が貴金属含有量によって決まるのなら無意味である。しかし実際には、国王(あるいは発行権を持つ権力者)が納税やその他の支払い時に受け入れる際の価値を決定していた。国王は「呼び上げ(crying up)」や「呼び下げ(crying down)」を行うことで、税金などの支払いにおける硬貨の価値を上下させていたのである。

また、現代では政府が発行する数種類の硬貨が一般的であるが、近代以前には非常に多様な硬貨が流通していた。例えば、中世フランスでは王家発行の硬貨以外にも80種類の異なる貨幣があり、「それぞれ独立し、重量、額面、合金の割合、種類が異なっていた」ほか、「20もの異なる貨幣制度が併存していた」(Innes 1913, 385頁)。マクドナルド(MacDonald 1916)によれば、メロヴィング朝時代のガリアには「1200人の異なる貨幣鋳造者(moneyers)」が存在しており、その大半は私的な貨幣発行者であった。この「私的貨幣の時代」はピピンおよびカール大帝によって終焉を迎えたようである(29–35頁)。

多くの硬貨が頻繁に使用されなかったことは、出土する硬貨が「極めて良好な保存状態」であることからも明らかである(Grierson 1965, 536頁)。金貨の場合、流通中の「摩耗率」は年間1%程度と推定される(Munro 1979, 181–182頁)が、「カロリング朝の硬貨は驚くほど流通が限られていた」(Grierson 1965, 536頁)。さらに、グリエルソンは、人々に硬貨を使わせるためにしばしば「法律による強制」が必要であったことを指摘している。「硬貨の受け取りを拒否した者は厳しい罰則を受け、自由民なら高額の罰金、奴隷身分なら鞭打ちの刑に処された」のである。貨幣が「社会的合意のもとで」自然に普及したという教科書的な説明とは明らかに矛盾しており、貨幣が貴金属含有量に見合う実質価値を持つのなら、こうした強制措置は非合理的といえる。

加えて、貴金属含有量が貨幣の価値を決定するのであれば、硬貨の価値がその金属価値を上回ることが常態化していたのは不可解である。もし貨幣の名目価値が含有金属の相対価値を下回れば、硬貨は鋳つぶされて金属として利用されるため、市場から消滅してしまうだろう。一方、造幣所が金属価値に見合う硬貨を発行するなら、製造コストを考慮すれば、造幣所の購買力はごくわずかにとどまる。教科書的な説明では、紙の信用貨幣は貴金属の節約のために発展したとされるが、実際には金属貨幣の発展自体が相対的に遅かったことがわかっている。ハシバミの木製タリーや粘土板といった、非金属で低コストの代替手段は、すでに実用化されていたのである。したがって、金属貨幣がハシバミの木製タリーなどと競争的に流通するためには、貨幣の名目価値が含有金属の価値を上回る必要があったと考えられる。

では、硬貨とは何か、その起源はどこにあり、なぜ人々はそれを受け入れるのか?

硬貨は「支払い用の証票(pay tokens)」、すなわち負債の証拠として誕生したように見える(クナップの印象的な表現による)。一部の伝統的な社会において一般的であったメダルがその起源であった可能性がある。初期の硬貨は、単なる贈り物に刻印を施し、贈り主を示したものに過ぎなかったかもしれず、受け取った相手に対する個人的な負債を認識するためのものだったとも考えられる。最初の硬貨は権力者によって鋳造され、おそらく紀元前630年ごろにアルゴスのペイディオン(Pheidon of Argos)が発行したとされる(Cook 1958, 257頁)。

初期の硬貨は額面が大きく、重量も均一であった(ただし純度は均一でなかった。これは当時、純度を検査する手段がなかったためである)。クックは次のように述べている。「硬貨の発明は、多数の均一な支払いを、持ち運び可能で耐久性のある形で行うための手段としてなされたのであり、この支払いを行った人物、あるいは権力者はリディア王であった」(261頁)。さらにクックは「硬貨の発明の目的は、傭兵への支払いにあった」と主張している。

この説はクラエイ(Kraay 1964)によって修正された。彼は「政府が傭兵に硬貨で支払うのは、税金支払いのための媒介物を作るためだった」と主張する(Redish 1987, 376–377頁)。また、クロフォード(Crawford 1970)は「初期の硬貨が交換の媒介物として使われたのは、硬貨の発行がもたらした偶然の結果であり、そもそもの目的ではなかった」と論じている(46頁)。クロフォードは「国家の財政上の必要性が造幣量と流通する硬貨の量を決定したのであり、硬貨は国家財政を支えるために最初から意図的に鋳造された」と結論づけた(ibid.)。つまり、初期の政府は「造幣と課税が王権におけるコインの表裏一体の関係である」ことを理解していた(Davies 1997, 146頁)。

同様に、イネス(Innes 1913)は次のように述べる。「王が発行した硬貨は、負債を示す証票であり、彼らが兵士や水夫の日給のような少額の支払いを行うために用いたものである」(399頁)。これにより、初期の硬貨の額面が比較的大きい理由が説明できる。硬貨は交換の媒介物ではなく、国家が「兵士や水夫」に対する負債を清算するための手段として使われたのだった。その目的は前述のタリー(tally)と同様であり、政府の負債を証明する役割を担っていた。しかし、ハシバミの木製タリーやその他の貨幣に比べて、硬貨の量はごくわずかであった。

「硬貨の量はあまりに少なく、王室やその領地の支払い需要を満たすことすらできなかった。そのため、王室では小口の支払いのためにさまざまな種類の証票が用いられていた。硬貨の重要性は非常に低く、時には国王が全ての硬貨を回収して再鋳造・再発行することもあったが、それでも商取引には何の支障も生じなかった」(Innes 1913, 389頁)。

その後、タリア・ディヴェンダ(tallia divenda)が発達し、国王が裁判所(the court)に物品やサービスを提供した者に対して会計検査局のタリー(exchequer tally)を発行できる仕組みが整えられた。ではなぜ、国王の臣民たちはハシバミの木製タリーや後に現れる紙幣やトークン貨幣を受け入れたのだろうか?

「政府は法律によって特定の人々に自らの債務者となることを義務付ける。例えば、国外から物品を輸入する者には、輸入品に応じた税額を政府に支払う義務が課される。あるいは、土地を所有する者には、所有面積に応じた税額が課される。これが『課税(levying a tax)』と呼ばれる手続きである。こうして政府に対する債務者となった人々は、理論的には政府が負っている負債を示すタリーの保持者を探し出し、彼らに何らかの財やサービスを提供することでタリーを手に入れる必要が生じる。そして、そのタリーを政府の会計検査局に納めることで税金が支払われる」(Innes 1913, 398頁)。

イネス(1913)はさらに、イングランドの地方税徴収官が集める税収の大半が会計検査局のタリーであったことを指摘している。

「実際、イングランドの会計検査局の業務のほぼ全てが、タリーの発行・受領、タリーと対タリー(counter-tally)、ストック(stock)とスタブ(stub)と呼ばれるタリーの両部分の照合、政府の債権者・債務者の会計管理、そしてタリーが会計検査局に返納された際の消却作業で構成されていた。会計検査局は、政府の信用と負債を管理する巨大なクリアリングハウスだったのである」(398頁)。

納税者が国王のタリーを自力で探す必要はなかった。なぜなら、債権者と債務者を結びつける役割を「銀行家たちが担っていた」からである。イネスは「銀行家は歴史の黎明期から常に政府の財務代理人であった」(Innes 1913, 399頁)と述べている。

会計検査局は次第に、国王に対する債務を他者に譲渡する仕組みを整えた。すなわち「会計検査局に保管されたタリーストックを、国王が第三者に譲渡することで、国王の債権者が本来の債務者から支払いを受け取れるようにした」(Davies 1997, 150頁)。これにより、債権者は支払いを待たずにタリーを割引価格で売却し、即座に現金化する市場が活発化したのである。

なお、イングランドでは1826年までハシバミの木製タリーが使用され続けていた。皮肉なことに、タリーは歴史に「炎とともに」その役割を終えることとなった。1826年以降、会計検査局に返納されたタリーは、庶民院(House of Commons)のスター・チェンバー(Star Chamber)などで保管されていた。しかし1834年、スペースを確保し燃料費を節約するため、これらのタリーを議事堂の暖房用ストーブで焼却することが決定された。しかし、火夫たちが熱心に燃やしすぎたため、歴史的なイギリス議会議事堂は炎上し、焼失するに至った(Innes 1913, 663頁)。

まとめ:硬貨の本質

ここで再度、問いに立ち返って考えてみる。硬貨とは何か?

硬貨とは、王室の負債を示す証票であり、タリー全体の中のわずかな部分に過ぎない。

「政府は、民間人と同様に負債の証拠を発行することで支払いを行う。これは王室財務省や他の機関に対する支払い命令(draft)という形で示される。中世イングランドでは、政府が債権者に支払う際には、税関(Customs)やその他の収入部門にタリーを発行させるのが通例であった。これは、木製のタリーを渡すことで、負債を認識させる手続きであった」 (Innes, 1913, pp.397–398)

経済学者が硬貨(特に政府発行の硬貨)や市場での交換、貴金属に過度に焦点を当ててきたのは誤りであるように思われる。

鍵となる概念は、負債(debt)であり、国家が臣民や市民に義務を課す力、すなわち課税能力である。国家が課税義務を設定した時、納税手段を決定する権限を有する。

政府が必要とする財やサービスを現物で徴収することも可能だが、それは煩雑で非効率的であるため、政府は自らを債務者とし、タリーや硬貨、紙幣、あるいは現代の銀行口座上の記録という形で、自らの負債証票を発行する。そして、納税時にその負債を受け入れることによって、政府の発行する「お金」が価値を持つのである。

政府の負債証票は、民間においても交換手段や負債清算手段として使われ得るが、これは国家の課税権と、その負債証票を受け入れる意思に根ざしている。

税負債を負っているが王室の債権者ではない者は、税支払いのために王室の負債証票を手に入れる必要があり、そのために商品を売るなどして取引を行うことになる。

次章では、信用制度の発展と銀行業の台頭について探る。

前近代ヨーロッパにおける銀行業の発展

貨幣両替、預金銀行業務、信用手形は、中世後期のヨーロッパにおいて同時に発展した。インガム(2004年)によれば、

「15世紀後半までに、パチョーリはその有名な複式簿記に関する論文の中で、現金、信用、為替手形、銀行への譲渡を含む9種類の支払い方法を列挙していた」(192頁)。

銀行は、当座貸越を利用して信用を拡張したり、架空の為替手形を作成したりした。例えば、商人や銀行家が外国での外国為替供給を銀行家に依頼しつつ、海外での返済を免除する代わりに、出発地の通貨および場所で後日支払いを受けるよう取り決めた(ロペス 1979年、15頁)。

イタリアでは、銀行業は貨幣両替から発展し、12世紀から13世紀にかけてルッカで銀行が運営されていた。これらの銀行は、小額の外国貨幣を合法的なルッカ貨幣に両替し、顧客に外国貨幣で融資を行い、金や銀を取り扱い(自然金を受け入れ、それを金箔職人に売却し、さらに糸や葉を購入して再販)、貸し付けを行い、顧客から預金(定期預金および要求払い預金の両方)を受け入れていた(ブロムクイスト 1979年、60頁)。預金者は通常、中流階級および上流階級の者であったが、貸付はしばしば農民に対して行われた。農民は種子や道具を購入するために貨幣を借り入れ、穀物やワインで貸付を返済した(63–64頁)。典型的な貸付額は典型的な預金額よりも小さかったが、預金の方が一般的に貸付よりも長期であった。

13世紀半ばまでに、両替商は商人に対して頻繁に多額の貸し付けを行っており、早くも1200年には、両替商がある顧客の負債を、債権者の口座に金額を振り替えることで決済することがあった(ブロムクイスト 1979年、65–67頁)。両替商は「銀行振替による負債決済を容易にするため」に互いに口座を開設し始めた(同上、67頁)。貸付は時折、預金者に対して当座貸越を提供することによって行われた。このようにして、13世紀にはすでに両替商が3つの銀行機能を果たしていたことが確認できる。それは、振替機能、決済機構、信用創造である。14世紀までには、主要な港町で銀行が運営されるようになった。これらの銀行は、顧客間の決済に利用される振替口座を提供し、仲介者として預金を貸し出した。また、銀行券(バンコ・マネー)を発行し、地域内で流通させることで銀行業務の規模を拡大した(デイ 1987年、2頁)。イタリアの両替商および預金銀行は主に地域市場で運営されていたが、国際商取引は13世紀半ばまでに主要都市で活動する商業銀行組合の手に委ねられていた(ブロムクイスト 1979年、68頁)。

国際銀行業は12世紀にはすでにルッカで発展しており、1150年代にはルッカが年6回開催されるシャンパーニュの大市に関与し、絹を送り、帰国のための商品を購入していた。これにより、ルッカで組織的な貨幣市場が発展した。すなわち、外国為替の買い手は「ルッカで資金を支払い、売り手(為替引受人)から、公証人による証書を受け取り、シャンパーニュの大市でプロヴァン貨幣に換算された同等額の返済を受ける」ようになった(ブロムクイスト 1979年、71頁)。返済は将来に行われるため、為替の買い手は貸し手であり、売り手は借り手となり、「買い手の資本に対する利子は、変動する為替レートに組み込まれていた」。例えば、借り手(売り手)は、大市の日に近づくほど、より多くの現地通貨(ルッカ貨)を外国通貨(プロヴァン貨)と交換して受け取ることができた(74頁)。

為替手形は、早くも1410年には裏書によって流通していた(ブローデル 1973年、359頁)。1437年には、ロンドン市長裁判所が「正式な為替手形の譲渡性および所持人の完全な支払い請求権を認める」決定を下した(マンロー 1979年、215頁)。しかし、完全な割引制度が認められたのは18世紀になってからであり、1536年にはアントワープの大市において手形の割引が行われた証拠がいくつか存在する(215頁)。17世紀半ばには、金細工師が預けられた金に対して手形を発行しており、1666年までに金細工師による発行額は120万ポンドに達していた。ヴェネツィアでは、15世紀から兌換可能な銀行券が発行されており、1660年代には銀行券の発行が一般化していた(ブローデル 1973年、360頁)。

この銀行業の発展に関する概説は、市場向け生産が主流となり、大多数の個人が市場活動に関与する貨幣制度が成立する以前に、どのような手法や金融商品が利用可能であったかを示している。このような社会において、信用は主に貿易の資金調達を目的として創出され、生産とはあまり関係がなかった。このような前資本主義社会では、貨幣と信用は購買力を時間を超えて移転する手段として機能したが、その主目的は貿易の「潤滑剤」となることであった。次に見るように、資本主義が発展するにつれて、貨幣と信用ははるかに重要な役割を果たすようになる。

重金主義(および征服)の時代までの金融の発展

これまでに検討した社会において、信用は一般的に使用されており、商業においても例外ではなかった。国家は市場の創設において重要な役割を果たし、価格は国家間の交渉による条約によって定められていた。(Polanyi 1971)中世の都市国家もまた、契約の保証人および執行者として役割を果たしていた。しかし、これらは市場向けの生産が支配的な経済ではなかった。マルクス、ヴェブレン、ケインズによって説明される「貨幣的生産経済」ではなかったのである。本節および次節では、資本主義への移行について検討していく。

新世界の征服時代において、国家は貨幣的な手段および制度の創設に、より直接的に関与するようになった。その主な目的は軍事冒険の資金調達であったが、王室の高い消費水準も無視できない。この時代は重金主義の時代と定義できる――すなわち、戦争が貴金属によって、そして貴金属のために戦われた時代である。一部の国々は、貨幣の名目価値とそれに含まれる貴金属との厳密な関係を維持しようと試みたが、「改鋳」は一般的であり、通常、名目主義が採用された。まず初めに、初期の政府財政を見ていくことにする。

イタリアの都市は、税の徴収を個人に「貸し出し」、徴収額の一部を彼らが保持するという伝統を古代ローマ時代から持っていた。収入が通常より必要な時期には、将来の税収を徴収する権利を売却することで収入を「前借り」することができた。例えば1164年には、ヴェネツィア共和国が将来の税収に対して前借りを行っている(Ehrenberg n.d., 47)。ヴェネツィアでは、聖ジョージ銀行が15世紀半ばにはすでに都市の債務を貨幣化しており、1619年には政府への資金供給を目的としてバンコ・デル・ジロが設立された(同47)。16世紀になってもなお、都市は明示的に、都市が債務を返済できなくなった場合に、すべての市民の身体および財産に対して債権者が権利を持つことを認めており、これにより都市の債務は比較的安全なものとなっていた(同33)。実際、ジェノヴァでは都市の債務が非常に流動的であったため、通貨と同様に自由に流通し、支払い手段として機能していた(同48)。

共和国は一般に借入が可能であったが、王政は戦争資金調達のために融資を得る能力がより制限されることがあった。王室も税収を前借りすることは可能だったが、その臣民が王室の債務を負担する義務を負うことは通常なかった。税収の前借り以外にも、官職の売却、土地の売却、金銀の純流入、貨幣の改鋳などが資金調達の手段となった。これらのうち、持続的な収入源となり得るのは最後の2つだけであった。重金主義の政策は、貨幣鋳造のための金属の流入を増やすことを目的としていた。改鋳や再鋳造によって金銀の保全を図ることは可能であったが、商人が改鋳された貨幣の受け取りを拒否する可能性があったため、限界があった。さらに、戦争は主に外国の地で行われ、現地の物資および雇用された傭兵によって支えられることが多かった。通常、外国の商人は戦争の結果に対する不確実性から、貨幣の価値を名目上の額面ではなく、その金属含有量に基づいて評価した(Ehrenberg n.d., 31)。本質的に、外国の地での戦争は金銀によって、そして金銀のために戦われたのである。15世紀末に新世界が「発見」されたことにより、金銀および戦争の新たな源泉が生まれた。

戦争の遂行が市民の手から傭兵の手へと移るにつれ、収入を生み出す能力がますます重要になった。13世紀から14世紀にかけて、イタリアの都市は軍事目的でコンドッティエーリ(軍事業務を請け負う専門の私企業)を雇用することが増加した。都市共和国が税収の前借りを得ることが可能であったため、通常、傭兵への支払いは信用拡張によって賄うことができた。概して、軍事支出は政府支出全体の3分の1から3分の2を占めていた。メディチ家のフィレンツェにおいては、1421年から1430年の期間に、軍事支出が政府総収入の2倍に達した(Goldsmith 1987, 164, 249)。ジェノヴァの1408年の債務は「当年のジェノヴァ海運取引の総額の約4倍に相当した」が、この多くがヴェネツィアとの戦争で蓄積されたものであった(Day 1987, 158)。また、スペイン王室がネーデルラント反乱鎮圧に費やした支出は、年間平均200万から300万金クラウンであり、これは同地域が最も繁栄していた時期の年間税収を上回っていた(Ehrenberg n.d., 28)。さらに「16世紀には25年、17世紀には21年だけが大規模な軍事作戦のない期間であった」(同28)。1585年以降、エリザベス朝政府は政府支出の5分の4を軍事支出に充てていた(Goldsmith 1987, 193)。このように、莫大な戦費は通常の支出として負担せざるを得ないものとなっていった。

都市共和国は信用創出によってこれに対応できたが、王政国家にとってはより困難であった。小規模な戦争ですら、王が戦費を蓄積することは借入なしには不可能であった。結果として、終わりなき債務の連鎖が生じた。通常、王室が借入を行うには、特定の税収源を担保にする必要があった。さらに、その際にはしばしば教会や裕福な市民、都市などの信用ある団体から保証を得る必要があった。これらの借入金はしばしば高金利で設定され、利率が42%に達することもあった(Prestwich 1979, 87)。しかし、高金利や戦争資金の継続的な必要性により、王室は利払いの停止や元本の不履行に陥ることが多かった(Ehrenberg n.d., 39–41)。実際、しばしば高利貸しに対する禁止令が発せられたが、その目的の一つには、王室が自らの利払い義務を放棄するための方便があった(同34, 43)。例えばイングランドでは、1240年まで王室への貸付に対して明示的な利息がついていたが、ヘンリー3世が自らの利払い負担を軽減するために高利貸しを禁じた(Prestwich 1979, 85)。

では、利息も元本もしばしば支払われないのに、なぜ王室に貸付を行う者がいたのか。一部の貸付は強制されたものであったが、多くは特別な待遇を期待して自発的に行われた。例えば、イングランド王室に貸付を行ったイタリアの貸し手は、滅多に返済されなかった貸付に対する見返りとして、土地、税金や陪審義務の免除、商業上の特権、債務不履行の債務者に対する会計検査局の権限行使、法廷での有利な扱いなどを受けた(Prestwich 1979, 91)。しかし、これらの特典を提供してもなお、中世末期までにはヨーロッパの王室の大半が借入による資金調達に困難を抱えていた。

国家が購買力を高める手段には、主に3つの方法があった。第一に、イタリアの都市国家が採用したように、臣民を国家債務の担い手とすることである。市民権、愛国心、代表制政府といった要素がこれを促進したが、それは本論の範囲を超える。第二に、重金主義の政策を通じて、王室への貴金属の流入を増やすことである。第三に、国家が不換紙幣を発行することである。しかし、国家紙幣が民間の信用貨幣と同程度に信頼されるようにならなければ、不換紙幣は銀行内で割引されることとなるだろう。

次に、重金主義および不換紙幣の創出について順に検討する。

重金主義は16世紀において、王室の慢性的な歳入不足と外国での戦争遂行の必要性によって促進された。このことは、金銀の新たな供給源を求める関心が高まり、アメリカ大陸の植民地化競争が激化した理由の一部を説明している。コロンブスは新世界への初航海の日誌において、その明示的な目的が「聖地奪回のための資金を得ること」にあったと記している。「私はすでに陛下に対して、この遠征の利益のすべてをエルサレム征服に充てるよう求めました。陛下はこれを喜ばれ、その意向はこの遠征がなくとも抱いていたと仰せになりました」(Fuson 1992, 157)。

また、貿易黒字が生じて貴金属(金銀や貨幣)が国内に流入すれば、その一部を課税することで王室は支払い資金を得ることができる。何よりも重要なのは、貴金属の国外流出を防ぐことであった。当時、貿易は通常、為替手形によって決済された。例えばイングランドの羊毛輸出では、購入者である織物業者は購入額の3分の1を現金で支払い、残額は6カ月後および12カ月後に支払われる2枚の手形で支払っていた。1340年、イングランド王室は羊毛輸出業者に対し、税を貴金属貨幣で納付するよう強制した。しかし、輸出先のフランドルが金銀の輸出を禁止していたため、この納税が不可能であると羊毛業者が訴え、税は撤回された。1429年には再び、全額をイングランド貨幣で受け取り、その3分の1を王室造幣局に納めることを義務付けたが、信用取引の禁止が輸出市場を壊滅させているとして業者が反発し、1470年代に再度撤回された。

このように、重金主義は財政的困難を緩和する手段となり得たが、その効果には限界があった。

重金主義、国家の不換紙幣、そしてジロ

近世後期の国家はジロの外にあった。国家は戦争を遂行するための支出能力を必要としていたが、自国の債務が常に受け入れられるわけではなかったため、支払いには金銀地金(貨幣鋳造用)に頼らざるを得なかった。しかし、貨幣の価値を含有する金属の価値以上に維持できたとしても、重金主義は国家をジロの外にとどめることになる。その結果、民間の商人たちは引き続き民間の信用貨幣を使用することを促されることになる。特に、彼らが王権の課税権の外に留まることができる場合はなおさらである。民間のジロ貨幣(為替手形など)を基にした交易が可能な限り、国家の歳入を増やす能力は制限されることになる。

国家はこれに対抗するために貨幣改鋳を行い、含有する金属を減らすことができた。1250年には、イギリスのポンド・スターリングは324グラムの純銀を含んでいたが、1600年までに112グラムに減少した。同様に、800年から1600年の間に、フランスの通貨単位は390グラムから11グラムに、ミラノの通貨単位は390グラムから4.9グラムに、ヴェネツィアの通貨単位は390グラムから3.5グラムにまで減少した(Cipolla 1980, 201)。

国家がジロの外にある状況では、臣民が過度の貨幣改鋳に異議を唱える可能性があった。商人たちは民間のジロへと移行し、民間の会計通貨で名目化された信用に依存することもできた。例えば、1619年にハンブルクのジロ銀行がマルク・バンコという単位を導入し、これは民間のジロ内での取引に使用された。この単位は国家の通貨単位(ターラー)に対して価値が変動した(Knapp 1924, 144–9)。Day(1987)によれば、ジェノヴァの商人たちは「完全に安定した会計単位、すなわちモネタ・ディ・フィエーラ(金貨の公定単位)、スクード・ディ・マルコ」を創出し、これが金に対して一定の価値を維持したと報告している(148)。

それでも、裁判所が名目主義に基づいて判決を下し、債権者に対して当時の公定価値に基づく貨幣での支払いを受け入れるよう強制することがあった。例えば、13世紀のイギリスでは、

「関連する様々な法的資料を精査すると、少なくとも13世紀後期以降、イギリスの普通法は現代でいうところの名目主義的なアプローチを採用していたことが強く示唆される。貨幣に関わる債務は、支払日の時点で流通している貨幣で、当初契約時の会計通貨額で支払われることが求められていた。契約成立時と支払い時の間に貨幣標準が変更された場合でも、その変更は債務履行には通常関係がなかった。普通法裁判所は、貨幣標準の変更を考慮して債務額を調整することはなかったと考えられる。」(Fox 2016, 203)

Foxはさらにこう述べている。

「1286–7年頃に書かれた『トラクタトゥス・ノヴェ・モネテ』の著者が、貨幣の新規発行が『君主の伝令官による通常の公示によって広く周知される』と述べていたことを思い出す必要がある」(208)。

この『トラクタトゥス・ノヴェ・モネテ』の最後の指摘は、君主の貨幣は「公衆が拒否することなく受け入れなければならない」という点であった。民衆は君主に対して、その貨幣を公定価値で支払いおよび受領する義務を負っていた。ヘンリー8世の布告には、王権の貨幣を拒否する者に対する罰則について次のように述べられている。

「貨幣を拒否し、受け取りを拒否する者は、その人物を拘禁し、君主がさらなる指示を出すまで保釈や保証なしに収監すること」(209)。

なお、この名目主義は外国通貨には適用されなかった。

「中世後期および近世初期のイギリスの裁判所は、外国通貨で名目化されたイギリス国内の取引を認識していた。しかし、イギリス君主が発行する貨幣とは異なり、外国通貨の価値は裁判官が認定できるものでも、認定すべきものでもなかった。その価値は常に陪審団による事実認定に委ねられていた。最終的には、外国通貨は法的には金銀地金と変わらないとされるに至った」(207)。

貨幣発行によって購買力を得ることができるのは、会計通貨で価値が設定された不換紙幣を発行する国家だけである。この点をケインズ(1982)は次のように論じている。

「…貨幣が単なる金属塊に過ぎず、その刻印が質を保証し量を示すにすぎない段階では、貨幣は金属の価値以上には流通しない。この初期段階では、貨幣改鋳という手段は利用できない。契約の発展に伴い会計通貨の概念が登場し、国家が発行する貨幣が法定通貨となり、会計通貨で計算された債務を法的に履行する効力を持つ段階に至って初めて、私たちが理解する意味での貨幣が人間社会に登場するのである」(226)。

現代の国家は、銀行の負債を税金やその他の国家との取引において受け入れることで、ジロの一員になることができる。国家がジロに参加すれば、銀行の負債が一般に受け入れられる支払い手段となる。この時点で、銀行券は銀行やその顧客との取引だけでなく、国家との取引においても有用なものとなり、これによって国家の支出能力が拡大する。同時に、国家に対する義務を持つ人々がジロに取り込まれることで、それまでジロの外にあった人々にも銀行券の受容が拡大していく。国家の参入はジロを強化すると同時に、国家の財政基盤を強化することになる。

国家の力は、ジロの頂点に立つことでさらに強化される。このためには、国家の負債が銀行の負債よりも優先される必要がある。このプロセスは中央銀行と単一準備制度の発展とともに進行する長期的な過程である。国家は、銀行の負債を受け入れることで銀行業務の拡張を促進すると同時に、銀行券の兌換性(銀行負債を国家負債に交換する仕組み)を維持することで国家貨幣の価値を保証する。兌換性は銀行券の発行を制御する手段というより、国家貨幣の信認を確保するための手段である。また、国家は最終的に民間銀行券の発行を禁止し、中央銀行券のみを流通する通貨とすることで、準備金を中央銀行に預ける要求払い預金に基づく制度へと移行することになる。

このようにして、国家は民間の信用力に依存し、信用保証を必要としていた財政的に貧弱な借り手から、国家債務が最も信頼され、国家の保証が民間の債務に信用力を与える現代の資本主義国家へと変貌を遂げる。この移行は、愛国心の醸成、共和制的な政府形態の発展など、主に非経済的な要因に支えられてきたが、それは本稿の範囲を超えている。しかし、イギリスにおける銀行と中央銀行の発展を簡単に考察することで、近世国家の慢性的な財政問題の解決が、現代銀行制度の発展を促進したことが理解できるだろう。

つまり、近代国家の台頭と近代金融システムの発展は切り離せない関係にある。実際、ハイルブローナー(1985)は次のように述べている。

「国家が貨幣制度に近代化を強制した、と言っても過言ではない」(88)。

中央銀行の発展と君主通貨の強化:イングランドの事例

この節では、14世紀から18世紀にかけてのイギリスの貨幣史を検討する。初期の時代には、イタリアの銀行家たちが王権に対する主要な貸し手であった。王権は金属貨幣を発行するとともに、タリー・スティックも発行していた(Maddox 1969)。民間の商取引は、君主の貨幣、為替手形、その他の信用形態を用いて行われた。民間銀行は銀行券を発行し、地方銀行はロンドンの銀行を決済に利用していた。

金融制度の抜本的な改革を引き起こし、今日まで続く現代の銀行制度への移行につながる二つの重要な出来事があった。
(1) 国王がタリー・スティック債務の支払いを停止したことにより、イングランド銀行が設立され、同銀行が国家の中央銀行となったこと。
(2) エリザベス女王による貨幣改革が、一見すると矛盾する形で貨幣と貴金属の間に強固な関係を確立したことである。

第一の出来事は、国家を銀行ジロ制度へと参加させることにつながった。第二の出来事は重金主義と整合的に見えるものの、最終的にはポンド・スターリングの地位を強化することになった。このポンド・スターリングの貨幣制度は、基本的に名目主義に基づいたものであった。

国家財政の変革:イタリアの銀行家、貨幣改革、イングランド銀行の創設

イタリアの金融システムの発展に通貨交換が重要な役割を果たしたのに対し、イングランドの金融システムの発展は国家財政によって形成された。13世紀末から14世紀初頭にかけて、イタリア人がイングランドの金融を支配しており、主に羊毛の輸出、王室への融資、イングランドに代わる大陸での支払いに関与していた。王室への融資は、国家が外国での戦争を遂行することを可能にした(百年戦争の勃発時である1338–39年には、イタリア人が12万5千ポンド以上のスターリング銀を貸し付けた)(Prestwich 1979, 79)。これらの融資は高金利で提供され、前述の通り、全額が返済されることは稀であった。しかし、イタリア人銀行家はその見返りとして特別な利益を得た。彼らは大きな役割を担う預金機関ではなかったが、預金者に代わって支払いを行うために短期預金を受け入れていた(96)。

重金主義の原則に従って、王室は貨幣の国外持ち出しを厳格に禁止していたため、イタリア人銀行家は為替手形を用い、イングランドでポンドを受け取り、例えばパリでリーヴル・トゥルヌワを支払った(Prestwich 1979, 97)。さらに、王室は外国貨幣をスターリング銀に交換する業務を王立両替所に限定し、これによりイングランドの金属貨幣の国外流出や偽造・削り取り貨幣の持ち込みを防止した。このような統制により、イングランド国内での銀行業はルッカにおける通貨交換業を基盤とした銀行業の発展を遂げることができなかった(99)。

詳細な証拠によれば、広範な銀行システムが発展する以前の前近代イングランドでは、小口信用が重要な役割を果たしていた(Mcintosh 1988, 560)。消費者は貨幣で決済していたが、商人は純額決済にのみ貨幣を用いていた。証拠によると、商人や消費者の間で負債が数か月、場合によっては数年にわたって記録され、最終的に清算されるまで残されていたことが示されている。

「二人の間に未払債務がいくつかある場合、両者の信頼関係が堅固であれば、これらの残高は何年も未回収のまま残ることがあった。友好的な和解を望む場合、通常は監査役を指名し、未払債務や納品履歴をすべて集計し、清算のために支払うべき金額を決定していた。信頼が崩れた場合には、訴訟を提起してヘイヴァリング法廷で争うこともできた」(Mcintosh 1988, 561)

このような訴訟は頻繁に見られた。

それでも、17世紀時点のイングランドの金融システムは、ヨーロッパ諸国と比べると依然として抑圧的であった。その頃までに、ヨーロッパでは民間の信用手形と国家の金属貨幣という二つの貨幣形態が普及していた。しかし、イングランドでは両者が不安定な対立状態にあったとIngham(2004)は指摘する(Desan [2024] も同様に述べている)。イングランド国王の主権はある意味で過大であり、彼らは債務不履行に対する法的責任を免れ、先代の負債を引き継ぐ必要もなかったため、貸し手は王室債務の保有に消極的だった。その結果、王室はイタリア人銀行家からの借入れと金属貨幣への依存を続けた。

王室は通常、重金主義を実践し、次のような施策を講じていた。

  • 外国貨幣の輸入禁止および金属貨幣の輸出禁止(14世紀から17世紀半ばまで)

  • 輸出業者に対する王立造幣局への金属供給の義務付け

  • 為替手形の使用禁止の試み

  • 信用取引の制限(Ingham 2004, 203)

1560–61年、エリザベス1世は貨幣改革を実施し、1ポンドを純銀4オンスと定めた。この標準は第一次世界大戦まで維持され、イングランドの財政および政治体制の要として機能した。彼女の改革により貨幣制度が安定し、長期的な国家債権者の安定供給が促進されたことで、信用貨幣システムの採用と拡張の基盤が築かれた(204)。国内貨幣は国家の範囲内で独占的に使用されることとなり、イングランドの金融政策は明確に君主制的かつ重金主義的なものとなった。これにより、イングランド国家が基盤となる「非人格的な信用」が確立され、銀行間や取引ネットワーク外で信用貨幣が広まる条件が整った(ibid)。

このように、金融面での後進性が、資本主義の発展に不可欠な近代的金融システムの創出につながった。国家と中央銀行が会計単位を設定し、通貨を発行し、民間銀行の準備金および金融システムの基盤となる安全な国債を供給する仕組みが整備されたのである。Ingham(2004)は、貨幣の金属への強いリンク、為替手形の非人格的かつ譲渡可能な債務への転換、イングランド銀行の創設が、近代的金融システムへの進化を促したと説明している。

中央銀行の発展に決定的な役割を果たしたのは、ある「挫折」だった。チャールズ2世は予想歳入を担保として「タリースティック」受領証を発行し、資金を調達していた。しかし、フランスとの戦争が迫る中、王室は深刻な債務を抱えており、1672年にタリースティックの債務不履行を宣言した。この事態に激怒したロンドンの金融界は、オランダ総督ウィリアム・オブ・オレンジに王位の奪取と侵攻を求めた。1689年の名誉革命後、憲法上の和解が成立し、新王には十分な歳入が与えられなかったため、議会の承認がなければ財政が成立しない仕組みが確立された。これにより、「財布の紐」が議会に移ったのである(Ingham 2004, 208–9)。

1694年、王室債権者の支持を受けて議会はイングランド銀行を創設した。当時、イングランドはフランスとの戦争で窮地にあり、財政再建が急務だった。イングランド銀行は以下の特権を持つ私立銀行として設立された。

  • 国家預金の唯一の受託機関

  • 株主に有限責任を認める唯一の法人

  • 1697年の議会法により、他の銀行に国家認可を与えないことを保証

1708年の法改正により、6人以上の共同出資銀行が紙幣を発行することを禁止(Bagehot 1927, 90–95; White 1984, 38)

イングランド銀行創設時、銀行は株式を発行して資金を調達し、その収益を国王に貸し付けた。この融資は、将来の関税収入で返済されることになっていた。銀行は国王の債務を担保とする形で紙幣を発行し、それを融資することで国王と借り手の両方から利息を得る構造となっていた。これにより、国王の個人的な借金は公的な負債に転換され、銀行券は公的な通貨となった。Inghamは次のように述べている。

「貨幣の社会的生成におけるこの変革の根底には、『議会内の国王』という複合的な主権概念に象徴される権力の力学的変化があった」(Ingham 2004, 209)。

イングランドの民間銀行と中央銀行の発展

1826年まで、イングランドには3つの銀行のカテゴリーが存在していた。すなわち、銀行券を発行するロンドンの民間銀行、銀行券を発行する地方の民間銀行、および銀行券を発行できない共同出資銀行である。イングランド銀行が享受していた、共同出資銀行でありかつ銀行券を発行する特権は、同銀行に大きな優位性をもたらした。共同出資銀行であったため、同銀行は公募により120万ポンドという巨額の資本を調達できたのである。対照的に、銀行券を発行していた地方銀行は、出資者が6人に制限されていたために慢性的な資本不足に悩まされていた(White 1984, 38)。さらに、イングランド銀行は有限責任企業であったため、所有者は私財を守ることができた。これに対し、民間銀行や他の共同出資銀行の所有者は、その全財産をリスクにさらさなければならなかった。

銀行は当初、資金の預託機関として始まったわけではなかった。初期の銀行が担っていたのは次の3つの業務である。政府への融資、貨幣の両替、および為替手形の流通の促進であった(Bagehot 1927, 77)。しかし次第に、銀行は単なる手形流通の補助にとどまらず、手形を割引し、それに伴って銀行券を発行するようになっていった。Bagehotは次のように述べている。

「いまだかつて、銀行券発行という前段階を経ずに、預金銀行制度を大きく発展させた国はない」(同書, 88)。

1800年時点で、イングランドにおけるM1(狭義のマネーサプライ)の50%を銀行券が占めていたのに対し、預金が占める割合はわずか10%であった(Cameron 1967, 8)。銀行預金が主流となるのは、銀行債務が支払手段・交換媒介・価値保存手段として人々に定着してからのことである。

こうして、銀行券発行という特権を付与したことで、イングランド議会はイングランド銀行がロンドンにおける銀行券発行を独占する道を開いた。法律上、民間銀行もロンドン市内で銀行券を発行することが可能ではあったが、18世紀半ばまでに民間銀行の発行する銀行券は、ほぼ完全にイングランド銀行券に取って代わられていた(Bagehot 1927, 96)。この時期、要求払い預金(demand deposits)を活用する銀行業務はまだ重要視されていなかったため、イングランド銀行は「ロンドンにおける銀行」としての地位を確立するに至った(同書, 97)。他のロンドンの銀行は主に対外貿易、証券・手形仲買人との取引、および地方銀行との連携に従事していた。

イングランド銀行の設立により、「新興のイングランド国民国家が、個人的な信用関係や特定の銀行ネットワークに依存しない形で、信用貨幣の発展を可能にする基盤」となった(Ingham 2004, 205)。同銀行は、手形割引と銀行券発行の独占権を通じて、イングランドの銀行システムを同銀行の割引率のもとで統合した。同時に、公的貨幣と私的貨幣、ならびに公的債務と私的債務の連動が進んだのである(Ingham 2004, 210–211)。

この過程で、為替手形は特定の商品の担保(「乾式為替(dry exchange)」訳注:融通手形のこと)から解放され、純粋な信用手形へと変化した。さらに、手形は特定の債権者・債務者から切り離され、譲渡可能な「無記名手形(payable to bearer)」となり、銀行券(bank notes)という形で「銀行貨幣」として発行されるようになった(Ingham 2004, 187, 199)。

このような変革には、特定の社会的・政治的構造が必要であった。具体的には、国王が議会に権限を譲渡し、国王の借用証書(IOU)は、イタリアの都市国家の例にならい、「国債(national debt)」へと転換された。これにより、国家信用貨幣の基盤が確立されたのである。最終的に、国家が提供する「個人間の関係性を超えた公的な交換領域」が成立した(Ingham 2004, 202)。Inghamは次のように述べている。

「国家は最大の支払者であり受取人であり、租税支払手段を規定することで、通貨の最終的な仲裁者となった。国家は、特定の社会的関係や経済的利害関係に制約されない社会集団を統合する貨幣空間を創り出した。信用貨幣は、国家による強固な司法管轄と正当性のもとに財政システムに組み込まれるまで、進化的に言えば「行き止まり」に過ぎなかった」(Ingham 2004, 202)。

こうした制度の発展によって、イングランドにおける重金主義(Bullionism)が廃れると考えられるかもしれない。なぜなら、中央銀行が銀行券を発行し、国王に融資できるようになったからである。しかし、実際にはイングランドの金属貨幣へのこだわりは逆に強化されることとなった。1727年には、ポンドは金属によって完全に裏付けられる制度が確立されたのである。

この時点で、信用貨幣は支払い手段として普及していたが、イングランドは同時に歴史上最も強固な金属貨幣制度を有していた(Ingham 2004, 210–211)。Inghamによれば、ポンドの正式な金属兌換制度が貨幣(硬貨・銀行券・手形)の信認を高めたのだという。この制度の肝は、硬貨に含まれる金属の量を固定することではなく、ポンドの価値を銀に対して固定した点にあった。ポンド自体は硬貨として鋳造されず、硬貨の価値はポンドを基準に定められた。こうした硬貨からポンドへの兌換、ならびにポンドから銀への兌換の仕組みが整備されたことで、主権者による貨幣価値の切り下げ(cry down)の恐怖が和らげられたのである。

かくして、イングランド銀行は国家・議会・銀行・民間の経済主体を結ぶ金融システムの中核として、中央銀行としての役割を確立していったのである。

イングランド銀行制限とイングランド銀行券の支配力の上昇

しかし、1797年から1819年にかけて、イングランド銀行はその銀行券を地金と引き換えることを禁じられていた。この「イングランド銀行制限」(Bank Restriction)と呼ばれる措置により、イングランド銀行に対する取り付け騒ぎが発生しないようにされた。「発券銀行がその銀行券を現金で支払う必要がない場合、その銀行は魔法のような生命を得る。望むままに貸し付け、好きなだけ発行し、自らの意向以外に制約を受けることも、自身に害を被る恐れもない」(ベイジホット 1927年、107頁)。 (ベイジホットは誇張している。銀行券の発行は常に、銀行券を受け入れる大衆の意思に制約されるからである。)さらに、「1797年以降、大衆は必要に応じて政府がイングランド銀行を支援すると常に予期してきた」(108頁)。したがって、この制限措置は、兌換停止が信頼を損なうと考えられるかもしれないのに、かえって銀行に対する大衆の信頼を強める結果となった。

イングランド銀行券は、政府への税金および関税の支払い、さらには政府公債の引受金支払いにおいて受け入れられた(キャメロン 1967年、22頁)。これは銀行券の需要を高める助けとなった。さらに、議会は1833年に地方銀行に対して、その銀行券をイングランド銀行券に兌換可能とする特権を与えた(ホワイト 1984年、39頁)。このようにして、イングランド銀行券は、銀行制度における準備金として貨幣に取って代わることで、鋳造貨幣と同様に望まれる存在となった。その後、イングランド銀行への預金がロンドンの銀行にとっての準備金となり、ロンドンの銀行への預金が地方銀行にとっての準備金となった。

ロンドン以外でイングランド銀行券の流通を促進するため、議会は地方銀行の銀行券発行を定期的に制限した。たとえば、議会は1775年以降、イングランド銀行以外のいかなる銀行に対しても1ポンド紙幣の発行を禁止し、1777年には5ポンド紙幣も禁止した。これらの制限は後に一時的に撤廃されたが、1ポンド紙幣の禁止は1829年に再び復活した(ウッド 1939年、38頁)。また、1826年には、議会はイングランド銀行に対し、ロンドン以外の都市に支店を設置して銀行券の流通を拡大するよう奨励した(39頁)。1844年までに、イングランドにおけるイングランド銀行券の流通量は私的発行の銀行券と同等の水準に達した(23頁)。

こうして、イングランド銀行の創設により、公的および私的な貨幣制度が統合された。インガム(2004年)は次のように述べている。「イングランドにおける政治的和解と絶対的な貨幣主権の拒絶が可能にしたこの二つの貨幣の融合により、二つの問題が解決された。すなわち、手形の形で存在した私的貨幣が、個人的な信用に依拠せず広く流通するようになり、さらに議会が、主権的債務の利払いに充てるための税および関税の徴収を承認した」(209–210頁)。

イングランドは、過度な主権と過少な主権の間でバランスを取ることに成功した。もはや主権者は信用リスクとは見なされず、その結果として、より高い債務および税負担の下で運営することが可能になった。「形成されつつあったイングランド国民国家は、結果として、銀行間および取引ネットワークの外部において信用貨幣形態が確立されることを可能にした非人格的な信用の基盤となった」(インガム 2004年、205頁)。

中央銀行、準備金、そして近代銀行業の発展

このセクションでは、中央銀行の発展とそれが民間銀行とどのように関係しているかを見ていく。

ロンドンにおける準備金のピラミッド化

ロンドンは中世以来、イングランドの対外貿易の中心であり、ロンドンを支払地とする為替手形が国際的な支払い手段の主たる役割を担っていた。税金はロンドンで支払わなければならなかった。また、ロンドンは地方銀行家たちのための決済機関としての役割も果たしていた(地方銀行家たちは地方や小規模な地域内でロンドンの介入を必要としない地域の決済取引所を運営することもあったが)、そのため通常、ロンドンの都市銀行に預金を主要準備金として保有していた。これらは決済に用いることも、現金が必要になった場合に使用することも可能であった。また、地方銀行はロンドンに株式や債券を副次的な準備金として預け、これを担保に当座貸越を行うことができた(Sayers 1957, 109)。準備金の額は大きく変動し、当座貸越が常態化することも珍しくなかった。地方銀行の中には、貸借対照表全体の10%に相当する当座貸越残高を抱えるケースもあった(121)。

したがって、ロンドンの銀行は地方銀行の主要および副次的準備金の預け先となり、ロンドンが金融の中心地であることがその背景にあった。ロンドンの銀行は地方銀行の預金に対して通常4%の利息を支払い、当座貸越には5%の利息を課していた。地方銀行はロンドンの提携銀行の口座で支払い可能な手形を発行し、この仕組みにより決済メカニズムが強化され、手形の受容性が向上した。地方銀行の手形が自らの営業地域外でも自由に流通できるようになったのは、他の地方銀行がそれをロンドンで決済できるようになったためである。

次に、ロンドンの銀行は準備金としてイングランド銀行の紙幣を保有していた。1833年以降、地方銀行の手形はイングランド銀行の紙幣で兌換可能となり、イングランド銀行の負債の魅力が一層高まった。こうしてロンドンの銀行(さらには後に地方銀行も)は、準備金として保有する紙幣をイングランド銀行への預金に切り替えていった(Wood 1939, 178)。このようにして、イングランドでは単一準備金制度が形成された。すなわち、全ての準備金は最終的にイングランド銀行によって発行された紙幣または預金によって裏付けられるようになった。地方銀行はロンドンの銀行に準備金を預け、仲介業者はロンドンの銀行かイングランド銀行に準備金を預け、ロンドンの銀行はイングランド銀行に準備金を預けるという構造である。「いかなる銀行も、自行の金庫内に日常業務に必要な額以上の金額を保有することはない」(Bagehot 1927, 28)。

1844年法

1844年法はイングランド銀行を二つの部門に分割した。すなわち、紙幣発行部門と銀行業務部門である。紙幣発行部門は、政府債務および保有する金地金を担保として紙幣を発行した。この仕組みにより、イングランド銀行が政府債務を担保に紙幣を発行することで、国家への資金供給が可能となった。同法は当初、イングランド銀行が証券を担保に1,400万ポンドまで紙幣を発行することを許可したが、その後、必要に応じて発行上限が段階的に引き上げられた。一方、銀行業務部門は紙幣の発行は認められていなかったが、国家や銀行、仲介業者の預金を管理し、政府証券やその他の証券、紙幣、貨幣を購入し、利益追求型の銀行として運営された(Bagehot 1927, 23–25)。1795年にはイングランド銀行の総資産に占める政府証券の割合は77%を超えていたが、1869年には紙幣発行部門の資産の3分の1、銀行業務部門の資産の31%にまで低下した(Cameron 1967, 20;Bagehot 1927, 24–25)。

地方銀行とロンドン銀行の分業

19世紀初頭まで、地方銀行とロンドン銀行の役割分担は明確であった。ロンドンにおける紙幣発行はイングランド銀行が独占的に行い、地方銀行はロンドン以外での紙幣発行を担っていた。地方銀行の紙幣は主に賃金支払いや小口決済に使用されていた。1826年までは、ロンドン以外の地域で流通する紙幣のほぼ全てが地方銀行の紙幣であり、イングランド銀行の紙幣が地方で流通することは稀であった。しかし、1844年法により民間発行の紙幣には発行上限が設けられ、次第に紙幣に代わって預金が普及するようになった。さらに、イングランド銀行の紙幣が地方でも次第に流通するようになり、1844年までには流通している紙幣の半数を占めるに至った。イングランド銀行は地方銀行の紙幣(通常、ロンドンで支払われるもの)を受け入れ、それを償還請求することで流通から回収し、自らの紙幣の流通を促進した(Wood 1939, 17–23)。

中央銀行の役割の精緻化

準備金の唯一の預け先(かつ、その自らの紙幣が準備金として認められていたため)として、イングランド銀行は準備金の価格を引き上げることで金融引き締めを引き起こすことができた。ロンドンの銀行や仲介業者に対する貸付金を回収することもできたし、手形の割引金利を引き上げることもできたし、手形の割引自体を完全に拒否することもできた。金融引き締めに直面すると、ロンドンの銀行は当座貸越の返済を求め、地方銀行に対してロンドンの提携銀行に預けたコンソル公債や株式を売却するよう迫った。ロンドンの銀行は地方銀行のために手形を売却する支援は行ったが、自ら手形を「再割引」することは通常拒否した。ロンドンの銀行は、自らの名前を付した手形を市場で販売することを避ける方針を取っていたためである。このような措置は長期金利の上昇や債券価格の下落を引き起こす傾向があった(Sayers 1957, 125–7)。

イングランド銀行は自己の準備金を増やすために公開市場で有価証券を売却することもあったが、これは主に信用状況に影響を与えるためではなく、準備金の確保を目的としていた(Wood 1939, 5)。イングランド銀行が金貨・銀貨の対外流出(例えばイングランドが貿易赤字に陥った場合)に直面すると、金地金の流入を促すために金利を引き上げる措置を取った。しかし、この対外流出は対内流出につながる可能性もあった。すなわち、銀行の準備金が流出していることに気付いた預金者が銀行の安定性に不安を抱き、信用供給が止まる前に手形を割引しようとしたり、預金の引き出しや紙幣の兌換を求めたりする可能性があった。当然ながら、こうした行動はイングランド銀行の準備金にさらなる負荷をかけることとなる。イングランド銀行が民間銀行に必要な準備金を供給しないかもしれないという姿勢を見せると、パニックが発生した。実際、イングランド銀行は対内流出が発生すると、自行の準備金を補充するために証券を売却しようとすることが多かった(Bagehot 1927, 65)。これは、イングランド銀行が長い間、自らを中央銀行ではなく営利目的の銀行であると認識していたためであった。

銀行が小規模で地方に根差していた時代には、預金や紙幣の取り付け騒ぎが発生しても、地元の有力者や尊敬を集める家族が銀行の帳簿が健全であると宣言することで混乱を収めることができた(Sayers 1957, 208)。地元の商人たちが引き続きその銀行の紙幣を支払い手段として受け入れると表明すれば、安定が保たれる場合もあった。時には、地域の他の銀行が支援に入り、経営危機に陥った銀行を救済することもあった。しかし、ロンドンの銀行と地方銀行の関係が強まるにつれ、ロンドン発の金融危機が地方にも波及するようになった。イングランド銀行が貸出を制限すると、ロンドンの銀行は地方銀行の資金を凍結し、当座貸越の返済を求めることが多かった。その結果、地方銀行も同様の措置を取らざるを得なくなった。こうした金融危機の後には、銀行間で長期的な契約を結ぶことへの消極姿勢が強まり、当座貸越よりも手形割引を優先する傾向が強まった(Bagehot 1927, 212)。

こうして、銀行システムは、19世紀を通じて第一次世界大戦に至るまで、ロンドンに意思決定の中枢を置いた株式会社銀行の統合システムへと進化し、さらに単一準備金制度の下でイングランド銀行に強大な権限を与える体制へと発展した。このイングランド銀行の特別な地位により、その紙幣は不換紙幣となり、厳格な金属貨幣の維持が不要となった。これは、民間が発行する送金貨幣がイングランド銀行の紙幣で兌換可能になったためである。こうした制度変更により、国家が送金貨幣のシステムに関与するようになった。なぜなら、イングランド銀行が政府証券を購入することで国家財政が支えられるようになったからである。さらに、ロンドンが国際金融の中心であったため、名目的なスターリング・ポンドが国際貿易における世界通貨として機能するようになった。金銀重金主義は自由貿易に取って代わられた。国家財政を支えるために金属貨幣が不要となり、むしろ金属貨幣の必要性は、ロンドンを国際金融の中心とする国際貿易の成長にとって障害となる可能性があったからである。ロンドンを中心にした金融システムへの銀行業務の集約は、金融関係を複雑化させ、準備金のピラミッド化によりレバレッジ比率を高め、銀行間の類似性を強め、経済の統合を促進した。これにより、金融危機が急速に波及しやすい状況が生まれたため、イングランド銀行の政策は、遠く離れた地方銀行にまで強い影響を与えるようになった。一方で、金融システムの統合が進んだことで、金融危機を防ぐという責任がイングランド銀行に重くのしかかることになった。

Bagehot(1927)は、こうした責任を果たすためには、イングランド銀行が短期的な利益追求の姿勢を抑制し、危機時には自らの利益に反する行動を取る必要があることを指摘した。すなわち、バランスシートの健全性を守るために金融引き締めを行うのではなく、最後の貸し手として機能する必要があったのである。Bagehotは、こうした最後の貸し手としての役割を担う際の合理的な条件を示し、その条件は後に主要な中央銀行で広く採用されることとなった。アメリカにおける中央銀行である連邦準備制度(Federal Reserve Bank)も、1913年に最後の貸し手としての役割を果たす目的で設立された。しかし興味深いことに、連邦準備制度は当初、政府財政への関与を想定していなかった。これは、イングランド銀行設立時の目的とは対照的である。しかし、設立からわずか数年後、第一次世界大戦で連邦準備制度の支援が必要となり、第二次世界大戦ではさらに大規模な支援を担うこととなった。

総括:資本主義への移行と生産のための貨幣制度への示唆

前節で述べたポイントをまとめよう。経済システムが近代的な資本主義システムへと進化するにつれて、金融システムもまた大きな変化を遂げた。初期の前近代期においては、生産の大部分が市場の外で行われていたため、貨幣化された部門は比較的小規模であった。商品は、手形(特に遠隔地間の貿易において)や鋳造貨幣(地域内取引において)を介して流通していたが、特定の地域ではその他の形態の送金貨幣も用いられていた。

しかし、次第に私有財産権が拡張され(特に奴隷に関する財産権の拡張が重要であった)、市場の重要性が増していった(奴隷市場も含めて)。これにより、主に民間銀行による紙幣発行を基盤とする高度な信用制度の発展が必要となった。送金貨幣の規模を拡張するために、決済機能を備えた仕組みが整備される必要があった。この結果、決済を円滑にするために準備金を集中させるシステムが発展するに至った。

初期の中央銀行(例えばスウェーデン国立銀行やイングランド銀行)は、国家財政の支援を目的として明確に設立されたものであった(Goodhart 1989b, 88)。中央銀行に特別な独占的優位性が与えられたことで、その紙幣は不換紙幣となり、国家に購買力を供給することが可能となった。同時に、単一準備金制度が形成されたが、これは一部には国家が中央銀行に与えた特権の結果であり、また一部には金融システムが自然に準備金のピラミッド化を進めた結果でもあった。Goodhartが強調するように、この発展は意図的なものではなく、予期せぬ進化的な展開であった。中央銀行は、自らの負債がさまざまな国家政策の副次的な効果として主要な準備金となったことにより、金融システムをある程度制御できることを非常にゆっくりと認識するようになった。国家の購買力を支える不換紙幣の発展を促進する政策の結果、信用貨幣と預金銀行に基づく近代的な金融システムへの移行が進み、その結果、近代的な資本主義国家と経済システムの発展が可能となったのである。
これらの発展は19世紀にはほぼ整っていたが、資本主義の萌芽はさらに早い時期に蒔かれていた。Ingham(2004)によれば、

ケインズが「貨幣的生産経済」と呼んだものの始まりは、17世紀に見出される。この時期、私的負債の証票が、広く受け入れられる法的に強制力を持つ支払手段へと徐々に進化したのである。当時の西ヨーロッパでは、民間銀行が発行する貨幣が主権国家の公的通貨と並んで存在していた。[…] そして最終的には、国家の借り入れと銀行の貸し出しが統合され、「国民」債務の創出が新たな支払手段の形成につながったのである。(187頁)

近代的な貨幣制度には、国家の貨幣単位で表示されたさまざまな民間の負債が含まれている。これらの民間の負債は、貨幣負債のピラミッド構造の下位層を構成しており、その上位には政府の負債(国債や短期国債)、さらにその上には中央銀行の紙幣と準備金が位置している。Ingham(2004)は次のように述べている。

貨幣的空間とは、主権国家が支配する空間であり、経済的な取引(負債や価格)はその空間内で一定の貨幣単位で表示される。[…] どの程度その負債が貨幣として機能するかは、その負債が受け入れられる階層構造の中でどの位置にあるかによって決定されるのである。(214頁)

現代の貨幣制度は、民間の信用貨幣と国家貨幣の双方を統合した体系を成している。

シェイブテイルさんによるXでのポスト

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