2026年10月1日木曜日

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える|にゅん

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える

【ガチ理論篇】シュミットと「○○さんは社会に不要」問題――『アンチ・オイディプス』から「支配者のいない支配」を考える

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 マガジン「シュミット経済学」。

 このエントリは、「コラム篇」のひとつとして、シュミットの著書 Inflation, Unemployment and Capital Malformations (『インフレーション、失業、資本の奇形』)を読んだ感想として書き始めたのだが(前編はこちら)、読み終えた今思えば、内容的にこれは、シュミットの理論に取り組む者が押さえておかなければならないガチ理論だよな、ということで「理論篇」に入れる。

「〇〇さんは社会にいらない」という考え

 自分では動かしようもないほど巨大に見える世界を前にした「たじろぎ」が、自己に向かうと、やがて「自分はこの世界に不要」という考えに至る。

 よくない。

 同じそれがもし他者に向かうとき、「この○○さんは社会に不要」という考えに至るだろう。

 それもよくない。

 何とかならないの?、という話になっていく。

 インフレーションと失業はもちろん問題だが、資本主義社会の根底の問題はこの「人間疎外」ではなかろうか。

貨幣の構造は、なぜ人を無力にするのか

 ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に、ベルナール・シュミットの名前が出てくる。

 ドゥルーズ=ガタリとは、哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共同名義で、『アンチ・オイディプス』はその代表作のひとつでだ。

 かなり癖の強い本だが、資本主義を「貨幣や欲望の流れ」として見る点で、シュミットの貨幣論と重要な接点を持っている。

 そこで参照されていたのは、シュミットの1966年の『Monnaie, salaires et profits(貨幣・賃金・利潤)』である。

 『アンチ・オイディプス』の刊行は1972年だから、わずか6年前の本である。

 当時シュミットはまだ、のちに1984年の『インフレーション、失業、資本の奇形』で本格化させる議論には到達していない。それでもドゥルーズ=ガタリは、この1960年代の貨幣論に、資本主義を別の角度から見る手がかりを見つけていた。

 それは、資本主義の支配を「資本家が労働者を支配する」という人格的な関係だけでは説明できなくする貨幣論だった。

二種類の貨幣

 『アンチ・オイディプス』の資本主義論では、「流れ」が重要概念だ。

 資本の流れ、貨幣の流れ、労働の流れ、欲望の流れ。

 単に、「流れ」と言うだけなら哲学的な比喩で終わるところだが、ドゥルーズは1971年の講義でもシュミットの貨幣論をかなり詳しく取り上げていた。

 銀行が企業に信用を供与するときの貨幣と、賃金として労働者に支払われた貨幣とは、同じ通貨単位で表示されていても、経済的な働きが同じではない。

 銀行信用としての貨幣は、企業に経済活動を開始する能力を与える。
一方、賃金として分配された貨幣は、所得となり、商品の購買力になる。

 ドゥルーズはここに、同じ「貨幣」でありながら異なる puissance――力 を持つ二つの流れを見た。1971年の講義では、金融の側の貨幣を「経済的力の記号」、賃金の側を財を取得するための支払手段として対比している。

 単純化すれば、銀行・企業側の「100」と、所得として手元に入る「100」は、数字としては同じでも、経済の中で果たす役割が違う。

 ここにドゥルーズ=ガタリは、資本主義を構成する二つの非対称な貨幣フローを見た。

「誰が盗んだのか?」

 『アンチ・オイディプス』は、利潤をめぐる(マルクス的な)問いの立て方をずらしている。

 シュミットの理論を使って利潤形成を考えると、

 「では誰が誰から盗んだのか?」

 という問いには、きれいに答えられなくなる。

 金融資本家が貨幣を盗んだわけではない。
 銀行が企業に与えた信用は、誰かから取り上げた既存の所得ではない。
 労働者についても、賃金支払いそのものによって購買力が形成される。したがって、あらかじめ存在した購買力で労働者が「買われた」という構図にもならない。
 産業資本家についても、利潤を単純に誰かの財布から取り上げたものとして説明することはできない。

 『アンチ・オイディプス』は、

“Who is robbed?”(誰が奪われたって?)

 と問う。

 そして、その問いをモーリス・クラヴェルの「誰が疎外されているのか」という問いと重ねる。

 問いが宙に浮く。

 いや、『アンチ・オイディプス』はさらに進んで、「誰も奪われていない」とまで言う。

 盗んだ主体も、盗まれた主体も、疎外する主体も、疎外される主体も、はっきり名指せない。

 それでも、賃金として受け取られる貨幣と、資本を動かす貨幣とのあいだには、明らかな力の差がある。

 これが彼らの資本主義像だ。

支配する人がいなくても、支配は成立する

 つまり

資本主義の支配には、支配する主体が必ずしも必要ではない。

 (いちおう、これは筆者 nyun による定式化だということを断っておこう)

 経営者は利益率を見て動く。銀行は貸した金が戻るかどうかを見る。労働者は所得を得るために働く。投資家は、より高い収益率を探す。

 それぞれの主体は、それぞれの位置から見ればかなり合理的に行動している。

 ところが、個々の合理的な行動を積み重ねた結果として、失業、競争、不安、人間の市場評価が生まれることがある。

 誰も「社会をこうしよう」と決めていない。

 それでも全員が、誰も全体を支配していない機構に従わされる。

 支配するものが、特定の人間から、社会関係そのものへ移ってしまう。

ドゥルーズ=ガタリにとってのシュミット

 ドゥルーズ=ガタリがシュミット主義者ということではない。

 彼らは、シュミットとマルクス経済学者のスザンヌ・ド・ブリュンホフ(Suzanne de Brunhoff)を大胆に重ね合わせる。

 ところでシュミットもブリュンホフも日本ではほぼ知られてない、という点にぼくは興味をそそられるが、それは措くとして(笑

 ブリュンホフは、マルクスの貨幣論を、単なる交換手段の理論としてではなく、資本主義社会を成り立たせる制度の理論として読んだ、らしい。

 貨幣は市場で商品を買うための便利な道具ではない。国家、銀行、信用、支払い、蓄蔵、労働力の再生産と結びついた、かなり厚みのある社会的装置だというわけだ。

 ブリュンホフはあくまでマルクスの問題系から、貨幣と国家、信用、資本の再生産を考える。シュミットはもっと会計的・銀行論的なところから、貨幣発行、所得形成、資本の病理を追っていく人だ。

 だから『アンチ・オイディプス』は、二人をきれいに整理して並べているというより、ちょっと無理をして接続している感じがしないでもない。

 哲学者クリスチャン・カースレイク(Christian Kerslake)の詳細な研究も、『アンチ・オイディプス』ではブリュンホフとシュミットが「織り合わされて」おり、シュミットの理解には誤読と思われる部分もあることを指摘している。

 カースレイクが引用する1971年の講義で、ドゥルーズはシュミットを、本人の意図とは無関係に「完全に分裂症的な経済理論」を作り出してしまった経済学者として扱っている。

 そして『アンチ・オイディプス』の終盤(AO 374/449)では、シュミットについて、「現代の経済学者の中で(シュミットは)狂気じみた経済システムに対して狂気じみた解釈を最後までやり切るという「比類のない利点」がある」、とまで評している。

 “among modern economists, [Schmitt] has for us the incomparable advantage of offering a delirious interpretation of an unequivocally delirious economic system (at least he goes all the way)”

 まったく、そうだねえ。

 問題なのは、シュミットの理論の奇妙さよりも、現代の貨幣経済そのものの奇妙さ、なのではないか。

 ドゥルーズ=ガタリの書き方は、その境界をわざと曖昧にしているように見える。

1984年のシュミットへ

 ここで時系列を飛ばす。

 1972年のドゥルーズ=ガタリは知るはずもないが、シュミットはその後、貨幣と資本の分析をさらに進める。

 1984年の『インフレーション、失業、資本の奇形』は、インフレと失業を、人々の行動の失敗として説明することを拒否する。

 家計が悪いのでもなく、企業が強欲だからでもなく、予想を間違えたからでもない。

 シュミットの表現では、経済の病は

“a blind mechanism that overpowers everybody”

 から生じる。

 「万人を圧倒する盲目的な機構」。

 これが1966年の貨幣論を読んだドゥルーズ=ガタリが嗅ぎ取っていたものと、重なる。

病理は姿を変える

 シュミットの1984年の議論を、貨幣と実物の勘定を一段ずつ追う形で読み直してみると、病理は一つの姿で残るわけではないことが了解されていく。

 まず、固定資本の償却にかかわる生産によって所得が形成されるが、もちろん、これは病理ではない。

 しかし、その所得保有者が通常取得できる財との対応に異常が生じる。

  すると、empty wages――対応する生産物を通常には取得できない所得――が生じ、その結果、取得可能な財に対する超過購買力が生まれる。

 それは価格を押し上げ(インフレーション)、それが企業側では貨幣利潤として現れる。

 さらにその利潤が資本形成へ入り込むと、病理は貨幣のフローから資本ストックへ移る。

 いわば、フローの病理が、資本ストックの病理へ移っていき、これが capital malformation(資本の奇形)につながる。

 そして病理的な資本蓄積が繰り返されれば、労働・現実の生産に対して維持すべき資本が過大になっていく。

 その結果、生産的投資の収益性が落ち、失業が生じる。

 インフレーションと失業が、誰かの行動ではなく、構造的な貨幣的障害から説明される。

 タイトルの通りだった!

「あなたは必要ない」

 これを人間の側から考えてみよう。ここからは、シュミット自身の分析を少し越える。

 失業した人が働けないのは、働く能力がなくなったからとは限らない。

 社会に必要な仕事がなくなったわけでもない。

 介護も、教育も、子育ても、環境保全も、地域の仕事もある。

 それでも資本の計算から見れば、

その労働を使用しても必要な収益率を得られない

 ということがある。

 そこで人間は、資本からこう告げられる。

 「あなたはいらない」

 しかし正確には、

 「社会にあなたが必要ない」

 のではなく、

 「現在の資本評価のもとでは、あなたの労働を使用できない」

 だけである。

 ところが、その二つは容易に混同される。

 資本による評価が、いつの間にか社会による評価に見え、さらに自分自身の評価へと内面化されていく。

 そして「仕事がない」が、「自分には価値がない」へ変わる。

 「疎外」という言葉が、かなり具体的なものになる。

疎外が「最大の症状」という読解

 というわけで、シュミットの技術的な病理、つまり empty emissions、その経済的な帰結としてのインフレ、capital malformation、失業への連鎖を、人間の側から見れば、人間自身が作った資本制度によって、人間が社会的労働から排除される、というところまで行く。

 こうして

 疎外をシュミットの病理論における最大の社会的症状として読む

 ことが可能になる。

 1972年の時点ですでにドゥルーズ=ガタリが、1966年のシュミットを「誰が疎外されているのか」という問いの近くに置いていた。

 さらにシュミット自身も後にチェンチーニ(Cencini)との共著『La pensée de Karl Marx. Critique et synthèse』を書く。

 ぼくはもっと前のシュミットにも興味が湧く。

シュミットは、分析で終わらない

 人間が作った制度が人間を支配する。

 そこまでなら「疎外」の診断で終わる。

 ところがシュミットは、どの制度操作がその病理を生み出しているのかを探し出した。

 そして、銀行活動を三つの部門に分離する改革案まで提示する。
 
 ここが重要だ。

 シュミットは、経済の病を「万人を圧倒する盲目的な機構」と呼んだ直後に、その治療法として銀行活動の三部門化を提示している。

 つまり彼にとって、この盲目的な機構は、文明一般でも、人間の業でもない。少なくともその核心部分は、変更可能な制度として特定されている。

 「人間の意識を変えよう」でも、「善良な資本家になろう」でもない。病理を生み出している制度そのものを変更しようとするのである。

 もしシュミットの診断が正しいなら、これはかなり珍しい疎外論になる。

 疎外を哲学的に告発するだけではなく、その一部について、「銀行の勘定体系をこう組み替えれば、この病理は発生しない」と制度設計まで提示するからだ。

それでも残る問題とMMT

 もちろん、銀行制度を変えれば人間の疎外がすべてなくなる、とは考えにくい。

 ドゥルーズ=ガタリが問題にした社会機械は、銀行だけではなく、企業、国家、家族、学校、消費、地位、アイデンティティ、欲望そのものまで含んでいる。

 さらに現実には、シュミットの病理とは独立した失業も考えなければならない。

 MMTを知っている人は、ここで、あの制度が思い浮かばないだろうか。

 Job Guarantee Program(JGP、雇用保障制度)である。

 シュミットの改革が、資本の病理によって人間が不要化されることを防ぐ制度だとすれば、JGPは、民間資本に雇われないことと、社会に必要とされないことを切り離す制度だ。

 民間市場だけでは十分に供給されない介護、教育、環境保全、地域活動であっても、そこには社会的な生産がある。

 そこでは所得だけが生まれるのではない。労働と同時に、社会的な生産物やサービスも生まれる。

 人間の社会的有用性を、民間資本の収益性だけに委ねない。

 そう考えるなら、シュミットの改革とJGPの組み合わせには、単なるインフレ対策や雇用政策以上の意味が出てくる。

 前者は、人間を不要化する資本の病理そのものを防ぐ。
 後者は、それでも市場からこぼれる人を、社会的労働から排除しない。

 この二つを合わせると、「資本に必要とされること」と「人間として社会に必要とされること」を切り離す制度構想として位置づけることができる。

再度、『アンチ・オイディプス』

 ドゥルーズ=ガタリが、なぜ人々が自分たちを従属させる社会的配置そのものを欲望するのか、と問うたとすれば、シュミットは別の方向から、なぜ人々の意図とは無関係に、経済制度が人々を圧倒する力を持ってしまうのかを追った。

 資本主義の支配を、「悪い誰かが、弱い誰かを支配する」という物語だけで考えない。

 誰も全体を望んでいないのに、その全体が成立する。

 誰も完全な主人ではないのに、人間を従わせる機構が存在する。

 その意味で、「支配者のいない支配」という問題がある。

 そしてもしその支配の一部が、具体的な貨幣制度の構造から生じているのなら、それは運命ではない。

 制度なら、変えることができる。

 ぼくがシュミットを読んでいて何度も驚かされたのは、まさにこの点だった。

 とくに、インフレーションと利潤の理解である。

 インフレーションは、ただ物価が上がる現象ではない。利潤も、単に誰かが誰かから奪った取り分ではない。

 少なくともシュミットにとっては、貨幣と生産物との対応が壊れ、所得と資本の関係が歪み、その歪みがある局面では価格上昇として、別の局面では貨幣利潤として、さらに別の局面では失業として現れる。

 そう読んだとき、インフレ、利潤、失業は別々の問題ではなくなる。どれも、人間の行動の失敗というより、貨幣制度の内部で生じる病理の別の現れになる。

 ここに何度も驚かされた。

 ぼくが深入りしてしまう理論は、そういうやつだけだ。

 わかってしまえば、極端にむつかしい理論ではないと思う。
シュミットがこの理論の骨格を作った1960年代には、もちろん今のようなパソコンも表計算ソフトもなかった。

 今なら、彼が文章と図で説明していたことを、勘定を一段ずつ動かしながら表現できるはずだ。

 何とかそこまで持っていきたい。


おまけ

 なお、資本奇形のイメージについては、ぼくは最初、癌細胞の増殖のようなものを想像していたのだが、癌よりも線維症というのが近いようだ。

 正常な修復反応が慢性的に繰り返されることで、病的な組織が蓄積し、臓器機能が低下していく。シュミットの資本奇形も、正常な資本更新そのものが悪いのではなく、その貨幣的処理の異常が繰り返されることで、資本ストックに病理が蓄積していく。

 長くなるので、この比喩は、また別に書こう。

 今言いたいのは次のことだ。

 できあがった理論そのものはドゥルーズ=ガタリが言うほど狂気じみているわけではない。

 線維症のメカニズムの話を見聞きして、それが理解できる人ならば、シュミットの理論もおそらく理解できる。

 現代のわれわれには、そこまで大したことはない!\(^o^)/


参考文献メモ

  • Bernard Schmitt, Monnaie, salaires et profits, 1966.(リンク)

  • Gilles Deleuze / Félix Guattari, L’Anti-Œdipe: Capitalisme et schizophrénie 1, Éditions de Minuit, 1972.(公式ページ)

  • Gilles Deleuze, Seminar on Anti-Oedipus I: Logic of Flows, 1971–1972.(講義録)

  • Bernard Schmitt, Inflation, chômage et malformations du capital, 1984. 英訳 Inflation, Unemployment and Capital Malformations, Routledge, 2021.(リンク)

  • Christian Kerslake, “Marxism and Money in Deleuze and Guattari’s Capitalism and Schizophrenia: On the Conflict Between the Theories of Suzanne de Brunhoff and Bernard Schmitt”, 2015.(リンク)

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