「金権政治家」と呼ばれた田沼意次の実像から見る自民党の「裏金疑惑」
異例の大出世で「首相秘書官兼財務相」に
意次は8代将軍徳川吉宗(1684~1751)に抜てきされて9代将軍徳川家重(1712~61)の小姓になり、10代将軍徳川家治(1737~86)の死去まで将軍の側近として仕え、知行は600石から失脚直前には5万7000石になり、城持ち大名に大出世している。
将軍の御用取次役は今の首相秘書官のように、通常は仕えるトップが代われば交代する。だが、家重が隠居して家治が将軍になっても意次は留任し、48歳で側用人、53歳で老中にまで上り詰める。側用人から老中への昇進も、側用人と老中との兼務も意次が初めて。今なら首相秘書官兼財務相のようなもので、家重と家治が意次を信頼していなければ、これほど異例の大出世はあり得ない。
田沼時代は吉宗の享保の改革の反動で財政規律が緩んだように思われがちだが、実態はその逆で、意次は頻繁に倹約令を出し、役所ごとの予算にシーリング(天井)を設けるなどして緊縮財政を進めた。歳出削減に"聖域"はなく、朝廷の経費や将軍の生活費(御納戸金)も削っている。将軍の生活費を削っておいて意次が私腹を肥やせば、政敵の定信派がすぐに将軍の耳に入れて失脚してもおかしくない。しかし、家重と家治は減封どころか加増して意次を重用し続けている。
倹約と緊縮財政を進め商人と対立
意次は専売制の拡大や株仲間の公認など、商業を重視した画期的な政策を進めたが、その狙いは幕府財政を立て直す新たな収入源を得るためだった。吉宗が進めた享保の改革で年貢が増税されて一揆が相次ぎ、農民へのさらなる増税は難しい。何とかして商人から税金をしぼり取れないものか――。そう考えた意次に対し、増税の標的になった商人は激しく抵抗した。豪商と賄賂でつながり、「おぬしもワルよのう」と酒を酌み交わす意次像は、過去のイメージに引きずられた時代劇の中だけの話なのだ。
株仲間を公認したのは、流通税や営業税(
本草学者の平賀源内(1728~80)の事実上のパトロンとなったのも、開明的な文化に理解を示した、というより、開発可能な鉱山を見つけて銀や銅を得るため。白砂糖や朝鮮
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