2024年6月7日金曜日

日本知的財産制度の創始者 高橋是清のこと | 国際・外国知財(特許、実案、商標、意匠)が得意な事務所をお探しなら 井上&アソシエイツ

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日本知的財産制度の創始者 高橋是清のこと

【高橋是清のものがたり】

高橋是清(たかはし これきよ)(1854.09.19.~1936.02.26.;81歳、二・二六事件で没)は、日本知的財産制度の創始者であり初代特許庁長官です。

高橋是清がどんな人で、どんな人生を送ったのかをご存知ですか?
ここでは、高橋是清の人となりやエピソードをご紹介します。
途中で米国特許制度の始まりのころの話題にも触れます。
よろしければ、しばらくおつきあいください。

まず、高橋是清の残した言葉をご紹介します(高橋是清 『随想録』よりの引用)。

「盛衰朽隆は人生の常である。順境はいつまでも続くものではなく、逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。境遇の順逆は、心の構え方一つでどうにでも変化するものである。」

「人事を尽して天命を待つ。自分は人力のあらん限りを尽した。この上は天の指図を待つのみである。こうなると成敗利鈍(成功・失敗・運・不運)は人間の眼中にはなくなる。」

これらの言葉は全て、高橋是清の生涯の体験からにじみ出たものでした。
高橋是清(幼名:和喜次)は、嘉永7年(安政元年)(1854)に江戸・芝露月町(しばろげつちょう)の江戸幕府御用絵師 川村庄右衛門守房(専ら江戸城本丸の屏風の御用を務めていた)の家に庶子として生まれます。実際の出生地は実家ではなく、母親(川村家の侍女 北原きん)の静養先である江戸・芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)にある母親の叔母りんの家と思われます。是清の母親北原きんは芝白金の裕福な鮮魚商三次郎の娘で、行儀見習いのため川村家へ奉公していました。諸事情から是清は生後数日で仙台藩士(足軽)高橋覚治是忠に里子に出されます。是清誕生の2年後に、三田聖坂(みたひじりざか)の裕福な菓子屋から是清を養子に欲しいと川村家に申し入れがあり、一度はその話が決まりかけます。しかし、是清を里子として2年育てた高橋家の養祖母が、武家の子の是清を町人にやるのは可哀そうだから高橋家の養子にしたいと川村家に申し出て承諾を得て、是清を養子とします。是清は高橋家で、貧しいながらも養親夫妻と養祖母(是忠、文、喜代子)により大切に養育され、特に祖母の喜代子からは優しく厳しく大きな愛情を受け、武士として学問や礼儀作法を熱心に教育されました。幼少期の是清は、仙台藩主の奥方に特別に目を掛けられて可愛がられたり、あるいは、疾走する馬に踏まれても無傷で済むなど、不思議な幸運に恵まれます。それらを見た周囲の大人たちから「高橋の子は幸せ者だ」とたびたび言われて育ったため、是清の心に「自分は幸せ者だ」という楽観が深く刻み込まれ、素直で、物おじせず、失敗してもくじけない、明るくたくましい少年に成長します。たくましいうえ、大変ないたずら好きで、「当時彼の腕白常人を超え、尋常一様の小僧の悪戯にあらず」(大輪董郎 著『財界の巨人』(昭文堂 明治44年;1911 刊)より引用)と評されるほどでした。

〔横浜での英学修行〕
是清は9歳のころ、祖母喜代子の勧めで、仙台藩の菩提寺である大崎猿町(現在の東五反田)の寿昌寺(じゅしょうじ)の寺小姓(小間使い)となります。藩の菩提寺である寿昌寺に小姓として入れば、足軽の子供(正規の藩校では学べない)でも読み書きが学べること、また、成人すれば御家人与力の株を買ってもらい出世の途が開けるかもしれない、という、是清を思いやる祖母の目算があったからです。是清が寿昌寺に住み込み奉公を始めてしばらくのち、10歳の時、仙台藩下屋敷の留守居役として江戸に来ていた血気盛んな若侍 大童信太夫(おおわらしんだゆう;1832.12.20.~1900.10.02.)から、横浜へ洋学修行に行かないか、という誘いを受けます。福沢諭吉(1834.12.12.~1901.02.03.)の友人である大童信太夫は改革派・洋学推進派でしたので、仙台藩家中から優れた若者を横浜に派遣して英仏の学問をさせることを考えていたのです。是清は好奇心から同意し、祖母喜代子の承諾を得ます。
こうして、10歳の是清は、一歳年下の鈴木六之助(のちの知雄)という少年とともに、仙台藩の命令で英学修行に外国人居留地のある横浜へ送られます。そして、まずヘボン塾(ヘボン夫妻が主催;横浜居留地39番に所在;明治学院大学とフェリス女学院大学の起源)にてクララ夫人の下で英語を学びます。1年半後にヘボン夫妻が「和英語林集成」印刷のため上海渡航したのちは、引き続きジェームズ・バラーという米国人宣教師の夫人の下(バラー塾)で英語を学びます。しかし、まもなく「横浜の大火」(慶応2年;1866年11月26日発生)にあい、焼け出され、やむなく一旦江戸に戻ります。
しかし、その後、仙台藩の訳読(書物の英語を日本語に訳しながら読むこと)の教師である太田栄次郎が是清の当時珍しい優れた英会話力に瞠目し、祖母喜代子に、是清を横浜居留地の外国人のボーイ(小間使い)にして再度英学修行させることを強く勧めます。こうして、太田の紹介で、是清は横浜へ再び戻り、英系銀行(チャータード・マーカンタイル・バンク・オブ・インディア・ロンドン・アンド・チャイナ)(横浜での通称「金(かね)の柱の銀行」)の支配人アレキサンダー・アラン・シャンド(1844.02.11.~1930.04.12.)のボーイとして1年ほど働きながら英語を学ぶことになります。是清は銀行の馬方やコックたちと付き合ううちに酒を覚え、朝から飲み、しまいには、シャンドのフライパンで毎日ネズミ捕りで捕らえたネズミを焼いて酒の肴にするようになり、それがシャンドにばれてしまいます。シャンドは怒ることなく、こう穏かにたしなめたそうです。「私の道具でネズミを焼くのだけはよして下さい。」シャンドは非常に優しい青年紳士で、幸いでした。

その後のシャンドは…。欧米の銀行実務に精通するシャンドは明治5年(1872)7月に大蔵省により紙幣寮附属書記官(顧問)として登用され(いわゆる御雇外国人)、日本最初の銀行として創立間もない第一国立銀行(1873年6月創立)に招かれて、銀行簿記や会計の技術を伝達し、同行の初代総監である渋沢栄一(1840.02.13.~1931.11.11.)にも銀行実務を指導しました。シャンドは大蔵省出版(1873年)の「銀行簿記精法」全5巻の原著者でもあり、また、第一国立銀行で日本で最初の銀行監査を行ないました(1875年)。シャンドは現代日本の銀行・金融界では「日本近代銀行業の発展の父」として知られています。そして、横浜での是清との出会いから更に30年以上のち(明治37年(1904))、日銀副総裁/駐英財務官となった是清が日露戦争の戦費調達に英国に赴いた際には、パーズ銀行(Parr's Bank)ロンドン支店長に昇進していたシャンドは是清の心強い味方となってくれます。すばらしい、不思議な機縁です。
鈴木六之助(のちの知雄)(1855.12.28.~1913.08.12.)は是清の生涯の親友となり、後年、是清の共立学校(きょうりゅうがっこう)開校(再興)に参画し、のちに、第一高等学校教授となり、更には日本銀行出納局長となります。

〔米国留学〕
是清は、横浜でシャンドのボーイとして英学修行するうち、幸運にも、鈴木六之助(のちの知雄)と共に、仙台藩派遣の米国留学生として選ばれます。米国への出発数日前に是清は祖母喜代子に呼ばれ、「堪忍」(忍耐)の大切さを教わり、また、武士として自らを処断しなければならない時のためにと、高橋家伝来の家宝の短刀を授かり、切腹の作法を教わります。13歳の是清は慶応3年(1867)の7月25日に米国桑港(サンフランシスコ)に向かうコロラド号という3728トンの外輪船(福沢諭吉が米国からの帰国のために乗船してきた船)に乗り、留学生として渡米します。この船には、是清同様に仙台藩足軽の息子である鈴木六之助(のちの知雄)、仙台藩士 富田鉄之助、勝安房守(かつあわのかみ;勝海舟)の息子 勝小鹿、庄内藩士 高木三郎、薩摩藩士 伊東四郎(のちの海軍大将 伊東祐亨(すけゆき))も同船していました。コロラド号は24日間の海路を経て桑港(サンフランシスコ港)に到達します。
この米国留学の仲介をしたのが横浜在住の米国人武器・弾薬商人ユージーン・ヴァン・リードでした。実はヴァン・リードは詐欺師で、仙台藩から留学仲介手数料受け取ったうえに、あくどい儲けをたくらみ、渡米した是清と鈴木六之助は、契約社会の米国で奴隷契約(本人の同意なしの3年間の年季奉公契約)のもとに、カリフォルニアのサンフランシスコとオークランドで1年あまり強制労働させられることになります。実は、ヴァン・リードの被害者は是清たちだけではなく、日本人約300人をだましてハワイに農夫として送り込んで劣悪環境下に低賃金で働かせていたこともわかりました。奴隷契約といっても、1865年発効の合衆国憲法修正第13条で奴隷制度は廃止されていましたので、奴隷契約はすでに違法なはずでした。しかし、人々の意識には奴隷制度の名残がまだ色濃く残っていたようです。米国は南北戦争(1861年4月~1865年4月)の終結からまだ2年後でした。(日本で人身売買に類する行為が法律で禁止されたのは、1872年(明治5年)10月に「牛馬切解令(ぎゅうばきりほどきれい)」が発布されたときです。「牛馬」とは「人権を失った人々」という意味です。人身売買禁止と娼妓・年季奉公人の解放がなされました。)
是清たちの米国生活はいわば奴隷契約によるホームステイですので、学校へ通えるわけでもなく、農場での労働や家事に明け暮れます。ただ、米国での生活に慣れるにつれ、ホームステイ先の家族とある程度の人間的交流ができるようになりました。しかし、なんにしても3年間も奴隷契約に縛られているわけにはいきませんので、契約解消の途を探ります。

〔米国留学からの帰国〕
紆余曲折を経て、最終的には仙台藩の先輩富田鉄之助(是清達と同じ船で渡米していた)と在サンフランシスコ日本名誉領事チヤールズ・ウォルコット・ブルックスの尽力で、なんとか契約解消でき、救われて、是清たちは1868年(明治元年)12月に帰国します。富田鉄之助と日本名誉領事ブルックスに救われなければ、是清たちは最低3年間、場合によっては更にだまされてずるずると5年も10年も米国滞在せざるを得なかったかも知れず、また、当時の米国で病気か事故にでもあえば生命の保障はありません。ですから、ヴァン・リードによる留学詐欺にあったにもかかわらず1年あまりで五体無事に帰国できたことは幸運と言えます。是清は14歳になり、すでに元号は「明治」に改まり、「江戸」は「東京」になっていました。

〔渡米前後の日本国内の情勢〕
是清の渡米前後の日本は幕末動乱から明治維新の激動期であり、是清が米国に旅立った約3カ月後、慶応3年(1867)10月に大政奉還がなされ、武家政権が終わりました。戊辰戦争(ぼしんせんそう;1868年(慶応4年/明治元年)1月~1869年6月)、廃藩置県(1871年(明治4年)8月)、廃刀令布告(1876年(明治9年)3月)、西南戦争(1877年(明治10年)1月~9月)と続く、明治維新の内戦と内乱の時期となります。なお、「明治維新」という名称は、「江戸幕藩体制の崩壊から天皇中心とする明治新政権の形成までの一連の政治的・経済的・社会的変革過程」を指す言葉として昭和になってから一般化した名称であり、「明治維新」当時の人々はこの変革過程を一般には「御一新(ごいっしん)」と呼んでいました。また、「幕府」という名称も、ごく一部の人たちを除いては使用されてておらず、一般の名称は、「公儀」(こうぎ;武士による呼称)、「御公儀」(ごこうぎ;町名主や豪商などの上級町民が改まった席で用いる呼称)、「公方様」(くぼうさま;庶民による呼称)でした。この時代には、新旧勢力のぶつかり合いに加えて、農民層(幕末期の日本人口(推定約3200万人)における農民の人口比率は約85%)にも激しい動きがありました。重税と借金に苦しむ農民が貧富の差をなくす世直しを唱える「世直し一揆」が幕末から各地で発生していましたが、農民一揆は明治政府成立後も続き、西南戦争の終わるころまでは各地で農民一揆が頻発していました。たとえば「徴兵令反対一揆」「解放令反対一揆」などの「新政反対一揆」や「地租改正反対一揆」などがあり、明治政府への不満や文明開化という変化や不透明な未来への不安が原因でした。とにかくこの時代は日本の各地で騒乱が相次いでおり、ときには征韓論を中心に意見が分かれ、思想的にも新旧が激しくぶつかりあい、さまざまな方向からの議論が噴出して、政府内も世論も混沌の中にありました。
戊辰戦争は、明治新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした明治天皇側の官軍)と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本最大の内戦です(名称の由来は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であること)。
西南戦争は日本最後の内戦であり、特権喪失と秩禄(年金)減額を受けた鹿児島士族(戊辰戦争時の官軍側であった)の反乱です。戊辰戦争で官軍側の藩にいた士族たち(鹿児島士族など)は、新政府から相応の恩賞や待遇が得られると期待していたわけですが、その期待があっさりと裏切られ、賊軍側にいた士族たちと同様に特権喪失と秩禄(年金)減額にあったものですから、官軍側にいて新政府のために戦った士族たちの新政府への不満と反発は大きかったのです。一方、全人口の95%を占める一般庶民(平民)にはそもそも何の保証もありませんので、徴兵令の公布(1873年(明治6年)1月)で士族階級の軍事職独占が崩れて、士族(もはや職業軍人ではないのに年金を受け取る)への平民の反発が高まります。新聞紙上では士族に対して「座食」「居候」「平民の厄介」「無為徒食」といった罵詈雑言が並ぶなどし、士族たちは生活困窮のうえ、肩身の狭い立場に置かれます。誇り高い武士のプライドはずたずたに引き裂かれてしまいました。なお、旧藩主階級である華族たちには旧領地の石高に比例した手厚い保護政策(石高の10%が家禄として給付された)がなされ、様々な経済的恩恵を与えられて多くが富豪となり、現在の富裕層の主な起源となりました(たとえば、この時に華族たちが得た巨額の資産を基に第〇銀行という番号付きの名前の銀行が全国に153行も設立され、名前は変わってもこれら銀行のほとんどが現在も営業しています)(出展:上念司 『経済で読み解く日本史 〈明治時代〉』 飛鳥新社)。うがった見方をすると、新聞がいっせいに士族を激しく非難していたのは、士族を「悪者」にすることにより一般庶民の「ガス抜き」をして喜ばせて新聞への人気を集めるという狙いはあったのでしょうが、それに加えて、一般庶民の非難の矛先が華族などの特権階級(新政府の要人たちを含む)に向かないようにする世論操作ではないかと考えられます。特権階級に有利な世論操作をすることにより、新聞各社がなんらかの利益供与を受けていたのかも知れません。

〔帰国後の生活〕
是清たちが帰国したとき(1868年(明治元年)12月)は、明治新政府軍(官軍)と旧幕府佐幕派諸藩軍との間の戊辰戦争(ぼしんせんそう)(1868年1月~1869年5月)の最中です。帰国できたものの、ほっとしている余裕はありません。是清たちの所属する仙台藩は賊軍側なので、官軍側(新政府軍側)に見つかると危うく、最悪の場合、問答無用で処刑される可能性もあります。是清たちはとりあえず人目を忍んで過ごすほかなく、知り合いのつてをたどって牛込堀端田町(うしごめほりばたたまち)の汁粉屋の隠居所に1カ月ほど身を隠します。不安と焦りの毎日が続きます。やがて運よく、英国留学・米国滞在の経験者で新政府の役人(外国官権判事)である森有礼(もりありのり)(1847.07.13.~1889.02.12.;のちに文部大臣となり、知育中心の近代的学校教育制度の確立に努力した人)に助けを求めることを思いつきます。しかし、森有礼は薩摩藩の人、つまり官軍側なので、賊軍側の是清たちを捕縛する可能性があります。それでも是清は、欧米の先進文化を見てきた森有礼が是清たちにひどい扱いをするはずはないと信じ、森に保護を願い出ます。是清たちは、こころよく受け入れられ、森の屋敷にかくまわれます。森有礼の勧めで、安全のため、是清は「橋和吉郎」、鈴木六之助は「鈴五六郎」という偽名を使います。森からしばらく漢学と英学を教授されたのち、大学南校(東京大学の前身の1つ)の英語コースに進ませてもらい、やがて、優れた英語力(読み書きと会話)を買われ、大学南校で教官三等手伝いという職を与えられ、教官用の住宅に移ります(1869(明治2年)3月)。それから1年半ほどは順風満帆といえる人生が続きますが、長続きせず、いよいよ、是清の帰国後の波乱万丈、数奇な人生が始まります。

〔是清の人柄〕
米国留学中、そして帰国後、高橋是清は人生のあらゆる辛酸と荒波、浮き沈みと喜怒哀楽を経験し、人間修行を積み重ねます。社会の底辺(米国留学中の奴隷的労働(本人の同意なしの3年間の年季奉公契約)、ペルーや日本での詐欺被害・事業破綻、放蕩生活)を経験し、また、芸者置屋の雑用・芸者の三味線運び、翻訳業・教師・学校経営・相場師・銀行員・大蔵省官吏・文部省官吏・農商務省官吏を経験し、更には、日本の頂点(日銀総裁、農商務大臣、商工大臣、大蔵大臣(1回の兼務を含む7回)、総理大臣(兼大蔵大臣))も経験するなど、信じがたいほどの波乱万丈・激動・七転び八起きの人生で知られます。
そのようなたぐいまれな人生体験をもつ是清は、大きな包容力・強い精神力・大胆な行動力・楽天性を持ち、豪放らいらくを地で行く人でした。政治家としては「財政の守護神」・「日本のケインズ」と呼ばれ、また、その豊かな風貌から「ダルマ宰相」・「ダルマ蔵相」・「ダルマさん」の愛称で国民に親しまれていました。また、大変な酒好きで、衆議院本会議場で茶碗に堂々と酒をくんで飲んでいたけれど、とがめる人はいなかったそうです。現代の政治家や経済人たちからも深く敬愛されています。

〔金融恐慌時のエピソード〕
特に有名なエピソードがあります。昭和2年(1927)の金融恐慌の時のことです。第一次世界大戦(1914~1918)後のバブル崩壊(戦争特需消失)による不景気と関東大震災(1923年9月1日; マグニチュード7.9)による大損害(死者・行方不明者10万人超、被害総額約60億円=国家予算の約4倍)を背景にして、昭和2年3月14日の衆議院予算員会で震災手形(震災のせいで返済不能となった手形)の処理をめぐる片岡直温(なおはる)蔵相の失言がきっかけとなって金融不安がしだいに全国に広まり、4月に金融恐慌(取り付け騒ぎ)が発生します。(失言の内容は、まだ破綻していない東京渡辺銀行を間違って、「破綻を致しました」と言ってしまったことです。)そして、第一次大戦後の不況と震災不況で破綻寸前であった鈴木商店(三井物産をしのぐ巨大商社)が破産し、台湾銀行(鈴木商店に多額の貸付を行っていた)が倒産寸前になります。若槻首相は台湾銀行を救済する緊急勅令案を枢密院本会議に提出しますが、若槻内閣の協調外交に不満のあった枢密院はこれを多数決で否決します(4月17日)。同日若槻内閣は総辞職します。混乱の最中(4月19日午前11時)に首相拝命した立憲政友会総裁の田中義一はその足ですぐに赤坂表町(現赤坂七丁目)の高橋是清邸を訪れて、是清(当時72歳)に蔵相就任を懇請します。「この難局は、高橋さんの力倆(りきりょう)がなければ切り拓けません。わが国財界のため、海外の信用を取り戻すため、どうかご出馬ください」。老齢と病後で体調思わしくないため、一旦は辞退しますが、再三の懇請を受け、頼まれると断れない性格の是清はこれを受けて「三、四十日間という約束」で3度目の蔵相に就任します(のちに是清は『随想録』で、「私の見込みでは三、四十日で一通り財界の安定策を立てることが出来ると考えたからだ」と語っています)。一刻を争う状況下、立憲政友会内閣は4月20日の午後6時30分に親任式を終え、すぐに初閣議を行い、対策を協議します。閣議後、午後9時過ぎに帰宅した是清は、日本銀行総裁、同副総裁、大蔵次官(それぞれ市来乙彦(いちきおとひこ)、土方久徴(ひじかたひさあきら)、田昌(でんあきら))を呼び、数日前から緩慢な取り付けを受けていた十五銀行の救済策を相談します。更に是清はすぐさま各方面の情報分析を行ない、4月21日午前11時頃には2つの応急措置(一、21日間の支払猶予措置(モラトリアム)を全国に発布すること、及び、二、臨時議会を招集して台湾銀行救済と財界安定の法案(日本銀行特別融通および損失補償法)を成立させること)を決定し、午後の閣議で各閣僚の同意を得ます。また、国民を一刻も早く安心させるために以下の声明書を発表します(4月21日午前10時)。「政府は今朝来各方面の報告を徴し慎重考究の上、財界安定のため徹底的救済の方策を取ることに決定しその手続に着手せり」。自然災害や紛争ではない状況での、銀行取り付け防止のためだけのモラトリアムは世界的にも類例がなかったのですが、是清は断行します。(モラトリアムは支払いの全面停止ではなく、支払うのは次の4種類としました。一、国県府その他の公共団体の債務支払い;二、給料及び労賃の支払い;三、給料、労賃支払いのための銀行預金の支払い;四、その他の銀行預金の支払いで、一口500円以下のもの。)また、モラトリアムの閣議決定(4月21日)から実施(モラトリアム緊急勅令発布)までには手続き上どうしても2日ほどのタイムラグが生じますので、この間に暴動的な取り付け騒ぎが起きるのを防止するため、是清は、銀行団を代表する三井・三菱両銀行の首脳(それぞれ池田成彬(いけだしげあき)と串田万蔵)を招き、「モラトリアム実施の準備行為として、民間各銀行に22、23日の両日、自発的に休業してもらいたい」と要請し、銀行団の承諾を得ます(4月24日は日曜日であり、結局3日間の休業となります)。全国すべての銀行を2日間(実質3日間)休業するのは経済活動に与える影響が大きく、自然災害か紛争の際でもない限り世界的にも類例がなかったのですが、是清は休業を断行します。そして、モラトリアムを発動すると共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に(合計1,250万枚以上)発行して、4月25日(月)の銀行開店を待つ各銀行に「開店前に店内を掃除し、また、落ち着いた接客対応をすること」(つまり平常営業をアピールすること)を指示し、また、店頭カウンターに急増200円札を山のように積み上げて見せて預金者を安心させます。こうして、全国的なパニックを21日から24日の4日間で収拾します。次に、台湾銀行救済と財界安定の法案(およびモラトリアムの事後承諾)についての臨時議会での白熱した議論の応酬の末に野党(新党倶楽部)を説得して、会期最終日の午後4時20分に衆議院を通過し、午後6時頃に貴族院に回ります。貴族院の審議は膠着しますが、同日深夜11時30分、会期満了の30分前に貴族院も通過します。実は貴族院での審議が膠着し、是清が疲れ果てていたとき、午後9時半頃に議員阪谷芳郎(さかたによしろう)男爵が突然立ち上がり賛成演説をしました。「私は本案に絶大なる賛意を表明する。この案には不備もあるかもしれぬ。しかし、今は国難のときだ。この際多少の異論はあっても、高橋蔵相の人柄と手腕を信頼し、賛成すべきである」。この一言で貴族院を可決通過します。この時の喜びと安堵を是清は『随想録』でこう述べています。「イヤこの時は実に嬉しかった。」「実にこの日の貴族院ほど緊張した、そして感激に満ちた光景は、私の経験中稀に見たところで、私は非情に満足であった。」こうして、法案は4日間の審議で無事に可決しました。その後、是清は特にコール市場(金融機関相互のごく短期の資金の貸借市場)を注視し、銀行間の資金繰りの流れを慎重に見守り、信用不安が再燃しないことを見届けます。やがて、閉店していた台湾銀行が平常通りの業務を開始したのも見届けたのち、就任から44日目の6月2日に蔵相を辞任します。
こうして是清は金融恐慌をわずか43日間の対応処理で沈静化させます。是清の行なった措置は、当時「疾風迅雷のいきおいである」といわれました。
国民を安心させるための声明書の発表に加えて、是清の断行したモラトリアム直前平日2日間の銀行休業、及び、21日間のモラトリアムは、おそらく、「誰も預金を下ろせないのだから先を争っても意味がない」という状況をしばらく維持する間に全国民に冷静さを取り戻させて自制心を働かせる心理的効果を発揮したものと思われます。もちろん、これは後知恵(hindsight)による推測から簡単に言えるものであり、混乱のさなかにある無数の人々の複雑な心理を完全に読み切って、このような銀行休業、モラトリアム、更には片面印刷急造200円札を銀行店頭に山のように積み上げて見せる、などの緊急策を着想して実行した是清の洞察力と胆力は測り知れないものです。現代であれば、「高橋マジック」とでも呼ばれたところでしょうか。
なお、この事例にならい、預金者を安心させて取り付け騒ぎを防止するために銀行窓口に紙幣を積み上げる緊急策は、現代でも行なわれたことがあります。1995年8月30日に、バブル崩壊のあおりを受けて経営破綻した大阪の木津信用組合で取り付け騒ぎが起きたときに、日銀大阪支店が大量の1万円札の束を持ち込んでカウンターの上に積み上げて預金者を安心させ、騒ぎを鎮静化させています。
是清は、こんな言葉も残しています(高橋是清 『随想録』よりの引用)。

「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだ」

「力で行かず自然に導く」

「どんな場合でも、たとい自分の考えが正しく見える時でも、威圧や暴力で行わせることは、絶対に慎まなければならない」

このように、是清は繊細緻密な知性と大胆な行動力を併せ持つ、型破りな人です。

〔日本の知的財産制度の始まりのころ〕
(幕府使節団が見た米国特許庁)
日本人として外国の特許庁や特許制度を初めて見分したのは、明治改元(1868)の8年前の万延元年(1860)に日米修好通商条約の批准書交換と親善を兼ねて訪米した77名からなる幕府使節団(いわゆる「万延元年遣米使節」)でした(正使 新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき); 副使 村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ); 目付 小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ;後の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)))。この使節団は、日米和親条約調印(嘉永7年;1854)による日本開国から6年後(日米修好通商条約調印(安政5年;1858)から2年後)、初代駐日総領事 タウンゼント・ハリス(1804.10.03.~1878.02.25.)の勧めもあり送られたもので、日本開国後初の公式外交でした。幕府使節団はワシントンD.C.には1860年5月15日から25日間滞在し、5月17日にジェームズ・ブキャナン第15第大統領(1791.04.23.~1868.06.01.)に謁見して批准書を渡し、5月22日に批准書が交換されます。ワシントンD.C.滞在中には米国側の案内でスミソニアン研究所・国会議事堂・ワシントン海軍造船所・アメリカ海軍天文台など近代的施設を訪問し、加えて1860年5月21日(批准書交換の前日)に米国特許庁を見学して特許制度を紹介されました。

(玉蟲左太夫による記録)
この使節団には正使の従者・記録係として、学識高く観察眼が鋭く筆まめな仙台藩士 玉蟲左太夫(たまむしさだゆう; 1823~1869.05.20.)が随行しており、彼による詳細な記録『航米日録』が残されています。『航米日録』(全8巻;原稿用紙480枚分に相当)には、航海中や旅先の様子・旅先の地勢・気候・風土・政治・経済・社会・現地人の生活習慣・衣食住・産業の状態・生物・物価・貨幣・草木などありとあらゆる事物が詳細に記録されており、全旅程(1860年2月6日~11月10日の9カ月余)のうち1日の欠落もありません。使節団が訪問した米国特許庁の様子は『航米日録』の第3巻の1860年5月21日の箇所に以下の趣旨で記録されています。

「パテントオフユシ」(Patent Office)(「博物所」という意味である)に行った。それは巨大な5、6階建ての建物で、先ずその2階に行って少し休憩した。3階へ上がると、前後左右に、数段の展示棚に動物・鳥類・魚類のはく製や世界中の無数の家具・道具・日常品などが陳列され、その先の区画には機械の模型が無数に陳列されていた。」
(出展:沼田次郎/松沢弘陽 『日本思想大系第66巻 西洋見聞集』 岩波書店(1974))。

なお、この時代の米国特許庁庁舎は歴史・科学・技術博物館のような機能も有しており、庁舎の3階には特許発明の模型(「patent models」)に加えて、政府所蔵の歴史・科学・技術収集品(「the government's historical, scientific and art collections」)も陳列されていたとの記録があります(参考: IPWatchdogサイトの記事: Smithsonian Exhibition on Innovation in 19th-Century America, March 6, 2011)。玉蟲左太夫はそのような米国特許庁舎内部の様子をありのままに記録したのでした。
遣米使節の全旅程のコースは以下のように東回り世界一周でした:1860年2月6日 品川沖出港・(米軍艦ポーハタン号で)太平洋・ハワイ(3月4日にホノルル着)・サンフランシスコ(3月28日に着)・パナマ(汽車で3時間かけてパナマ地峡を横断し大西洋側のアスピンウォール(現在のコロン)へと移動)・(1年以上待機していた米軍艦ロアノーク号で)カリブ海・ワシントンD.C.(5月15日に到着)・フィラデルフィア・ニューヨーク・(米軍艦ナイアガラ号で)大西洋・ロアンダ(アンゴラ)・バタビア(インドネシア)・香港・11月10日 横浜帰着。

(英才 玉蟲左太夫の悲運)
玉蟲左太夫は帰国後、仙台藩重臣に取り立てられ小姓組並の身分で迎えられ、江戸勤務学問出精を命じられ、後に大番士となり、1866年(慶応2年)藩校・養賢堂指南統取(しなんとうどり;学長)に任じられます。しかし、戊辰戦争(1868年1月~1869年5月)に際し、仙台藩主・伊達慶邦(だて よしくに)の命を受けて東北諸藩を回り奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)成立のために活動して、その責めにより戦犯として捕縛され、惜しくも獄中で切腹となります(明治2年4月9日;1869年5月20日)。列藩同盟成立に尽力したことが理由で玉蟲左太夫は「仙台藩の坂本竜馬」とも呼ばれます。なお、玉蟲左太夫の抜きん出た学才について言えば、弘化3年(1846)に幕府昌平坂学問所の長官(大学頭;だいがくのかみ)林復齋(はやし ふくさい)の門下で学び、やがてその塾長を勤めたほか、訪米前の安政4年(1857)に函館奉行・堀利煕(ほり としひろ;1818.07.21.~1860.12.17.)に随行して北海道や樺太を約4か月間視察し、その時の記録を『入北記』(9巻)としてまとめました。『入北記』の詳細さや観察力を幕府に高く評価されて、遣米使節の一員に選ばれたのでした。玉蟲左太夫は福沢諭吉に劣らない優れた人物ですが、明治維新の政治動乱に関わりすぎたことが仇となり、不幸な運命をたどりました。
一方、玉蟲とは対照的に、福沢諭吉(後述の咸臨丸に乗船していた)は政治には一切関わらずに洋学に集中して政治動乱を生き延びて啓蒙思想家・教育者として大成しました。政治とは明確に距離を置いた福沢諭吉でさえ、開国派・洋学推進派であるために、又従弟(またいとこ)の増田宋太郎(ますだ そうたろう;1849~1877)や信頼していた後輩の朝吹英二(あさぶき えいじ;1849~1918)(いずれも過激な攘夷思想に影響されていた)からいつの間にか激しく憎まれ危うく暗殺されかかった(偶然の成り行きで奇跡的に難を逃れた)ことがあるといいますので、この時代はとにかく物騒な世の中でした。福沢諭吉の生涯の功績は膨大で、翻訳活動による外国文化・概念の紹介(訳語として多くの和製漢語(「自由」「経済」「演説」「討論」「競争」「共和」「抑圧」「健康」「楽園」「鉄道」など)を造語した)だけに注目しても、現代日本の強固で柔軟な文化的枠組み構築への筆頭貢献者といえる人ですので、もしも早くに亡くなっていたら、どんな日本になっていたかは想像できません。福沢諭吉は慶応義塾大学の創立者です。安政5年(1858)の冬に福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷内に藩の命令で開いた蘭学塾が慶應義塾の起源とされます。場所は江戸の築地鉄砲洲にあり、現在の東京都中央区明石町の一部で、いまの聖路加国際病院のあるあたりとされます。

(随行船 咸臨丸)
幕府使節団の正使一行は米国海軍の外輪フリゲート艦ポーハタン号(USS Pawhatan)で太平洋を渡りましたが、太平洋横断という大航海のために、悪天候など不慮の事故に備えてポーハタン号の随行船として一緒に派遣されたのが、あの有名な咸臨丸(かんりんまる;スクリュー推進式蒸気帆船;米国軍士官/水兵11名を含めて総員105名)です(「咸臨」とは『易経』に由来する言葉で、君臣が互いに親しみ合うという意味)。咸臨丸派遣は幕府海軍の練習航海も兼ねていました。咸臨丸乗船者には、木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ;木村芥舟(きむらかいしゅう);1830.02.27.~1901.12.09.)、勝麟太郎(勝海舟)・福沢諭吉・中浜万次郎(ジョン万次郎;1827.01.27~1898.11.12.)など、後世の歴史に名を遺す有名人が何人も含まれていました。勝麟太郎は艦長として、中浜万次郎は通弁主務(通訳)として、福沢諭吉は軍艦奉行 木村摂津守喜毅の従者として乗船しました。咸臨丸はサンフランシスコで遣米使節正使一行と別れハワイ経由で帰国しました。旅程全体としては、1860年2月10日に浦賀を出帆・37日間の航海を経て3月17日にサンフランシスコ港到着・5月8日にサンフランシスコ港発・ハワイを経て、6月23日に浦賀に帰着。福沢諭吉はサンフランシスコでウェブスター辞書と「華英通語」(英語と中国語の対訳語集)を買っており、これは英和辞典を作成するための資料でした。

(外国特許制度の日本への紹介)
是清の生まれる1年前、嘉永6年(1853年7月8日)のペリー艦隊(4隻の軍艦)の浦賀来航(その約半年後の嘉永7年(1854年2月13日)にはペリー艦隊(9隻の軍艦)が浦賀に再び来航)の後に日本は急速に開国に向かい、西欧の文物を大々的に導入し始めました。こうした流れの中で特許制度も、福沢諭吉(1835.01.10.~1901.02.03.)の大ベストセラー 政治・地誌・歴史書である啓蒙書『西洋事情』(3編、全10巻;1866~1870にかけて出版)の外編 第3巻(慶応4年;1868)、及び、神田孝平(かんだたかひら;1830.10.31~1898.07.05.)の「褒功私説」(『西洋雑誌』第4巻;慶應4年(1868)頃)によって、日本にはじめて紹介されました。福沢諭吉は『西洋事情』 外編 第3巻において、patentを「発明の免許 パテント」と、Patent Officeを「『パテントオフヒシ』ト云ヘル発明免許ノ官局」と訳しており、神田孝平は「褒功私説」(ほうこうしせつ;西洋の特許制度に関する論説)において、patentを「褒功法」と、Patent Officeを「褒功院」としています。
福沢諭吉は『西洋事情』外編において以下のように述べて、発明の奨励とそれによる国民の利益を説いています。「世に新発明のことあらば、これよって人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、その間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。これを発明の免許(パテント)と名づく」
神田孝平は「褒功私説」において以下のように述べて、西洋の特許制度を紹介し日本での必要性を説いています。「西洋諸国にはパテントということあり、訳すれば褒功法ということなり。西洋やアメリカ合衆国などはこのことに関して特に盛んである。日本でこの法を行うには、まず、東京にこれを取り扱う役所を設ける必要がある。なるべく早く、こうした役所を設立して、国家富強の源とすることを願うものである。」

(岩倉使節団の米欧訪問)
明治政府は、廃藩置県(1871年8月29日)の後間もなく、不平等条約改正の準備交渉や海外視察(米欧先進諸国の制度・文物の情報収集)のために岩倉使節団を送り出します。一般に「不平等条約」とは「条約を結んだ当事国相互の力関係が対等でないため、その一方が不利な条件を負わされているような条約」を意味し、日本が幕末に諸列強と結んだ条約(たとえば日米修好通商条約;1858)は、協定関税・領事裁判権・最恵国待遇を片務的に認めたもので、日本に不利な不平等条約でした。岩倉使節団の主要メンバー(大使・副使)は明治新政府の若き実力者たち(30代~40代)であり、特命全権大使 岩倉具視(右大臣)(いわくら ともみ;1825.10.26.~1883.07.20.)、副使 木戸孝充(参議)(きど たかよし;1833.08.11.~1877.05.26.)、副使 大久保利通(大蔵卿)(おおくぼ としみち;1830.09.26.~1878.05.14.)、副使 伊藤博文(工部大輔)、副使 山口尚芳(外務少輔)(やまぐち ますか/なおよし;1839.06.21.~1894.06.12.)の4名です。(使節団は政府首脳部の多数を含むので、日本に残った政府は「留守政府」と言われました。留守政府の主なメンバーは三条実美(さんじょうさねとみ;1837.03.13~1891.02.18.)、西郷隆盛(1828.01.23.~1877.09.24.)、大隈重信(おおくましげのぶ;1838.03.11.~1922.01.10.)、江藤新平(1834.03.18.~1874.04.13)、板垣退助(1837.05.21~1919.07.16.)、井上馨(いのうえ かおる;1836.01.16.~1915.09.01)、大木喬任(おおき たかとう;1832.04.23.~1899.09.26.)などです。留守政府は優秀でその業績は非常に大きく、「四民平等」「富国強兵」「殖産興業」などの政策は留守政府が始めたものです。具体的には、たとえば、以下の政策が挙げられます。華族と士族の職業選択の自由許可;全国戸籍調査実施;土地田畑永代売買の解禁(地租改正の下準備としての土地所有権の確立);兵部省の解体及び陸軍省と海軍省の設置;神社仏閣の女人禁制廃止;東京-大阪間電信開通;僧侶の肉食・妻帯・蓄髪許可;家抱(けほう)・水呑百姓の解放と農民職業自由の許可;学制の公布(近代的教育制度の創設);裁判所体系整備;新橋-横浜間の鉄道開業;横浜にガス灯設置;琉球王国を琉球藩とする;牛馬解放令の公布(ぎゅうばきりほどきれい;人身売買禁止と娼妓・年季奉公人の解放);官営富岡製紙工場の開業;国立銀行条例制定(アメリカのナショナル・バンクにならい、国ではなく、民間銀行が兌換紙幣を発行する制度。「国立銀行」という呼称は「ナショナル・バンク」の和訳であり、「国立」と名がついているが民間銀行);太陽暦の採用(太陰暦の廃止);徴兵告諭公布;全国に六鎮台(陸軍部隊)を設置;徴兵令施行;切支丹禁制高札の撤去;地租改正(収穫物による物納から土地の売却価格の3%を地租として金納する納税システムへの変更)。)使節団はさらに、書記官(一等書記官~四等書記官)として、国際的な経験と知識を持つ旧幕臣や有能な若い人材(ほとんどが20代~30代)を10名配置しています。使節団46名ほか、大使・副使の随従者18名、留学生43名(津田梅子(6歳)・山川捨松(10歳)・永井繁子(11歳)・中江兆民(24歳)・金子堅太郎(18歳)・団琢磨(13歳)を含む)が同行し、合計107名の大使節団でした。
使節団一行は1871年12月23日(明治4年11月12日)に太平洋蒸気郵船会社(Pacific Mail Steam Ship Co.)の外輪船アメリカ号(4554トン)で横浜を出発し、米国・英国・欧州諸国(合計12カ国)を歴訪・視察して1873年(明治6年)9月13日に帰国します。約1年9カ月、632日の旅でした。一行の船は1872年1月15日の明けがた、米国サンフランシスコ港に入港します。使節団は15発の祝砲で迎えられます。翌日から地元官民の歓迎ぜめとその周辺地域の諸施設の視察と見学が2週間ほど続いた後、1872年1月31日に出立し、米大陸を東へ横断しワシントンD.C.に向かい、1872年2月29日(明治5年1月21日)に到着します。使節団はここでもまた大歓迎を受けます。
条約改正の交渉はワシントンD.C.の国務省で1872年3月11日(明治5年2月3日)から始まります。使節団の当初の目的は不平等条約の改正の予備交渉でしたが、米国で大歓迎を受けたことから気をよくして直ちに改正交渉に入ることにします(改正交渉をしようと言い出したのは駐米少弁務使 森有礼(もり ありのり)で、それに同調したのが副使 伊藤博文といわれます)。しかし(第4回目の交渉を終えた時点で)日本側が外交ルールを知らず必要な全権委任状を持たないことにより米国での交渉が中断し、大久保利通と伊藤博文が一時帰国して天皇の委任状(「国書御委任状」)を受けて米国に戻ります(往復に約4カ月要します)。(もっとも、使節団が日本を代表していることは明白なので、委任状がないことを盾にとって交渉を拒絶するのは現代の米国人専門家の目から見ても「無理難題」と言えるとされており、米国側による時間稼ぎの口実にされたというのが真実のようです。)その後、6回の交渉を重ねますが、日本側の希望する項目(関税自主権・領事裁判権の廃止・居留地問題)のいずれについても壁は厚く、交渉は難航します。1872年7月22日に第11回目の交渉に入ったところで、やむなく対米交渉は打ち切られました。
しかし、実は、改正交渉が中止になったのは不幸中の幸いとも言えます。なぜなら、最恵国条項により、米国との改正交渉が成立すると、他の国(修好通商条約を結ぶ欧州13カ国)にも(均霑(きんてん)、つまり波及)するので、日本が米国に譲歩した項目は他国にも譲歩しなくてはならず、しかし一方、米国が日本に譲歩した項目を他国が拒絶することは確実であり、つまり、各国と個別交渉ができないということであり、取り返しの付かないことになる可能性があるためです。英国ロンドンに留学中であった尾崎三良(おざき さぶろう;1842.03.03~1918.10.13.)と河北俊弼(かわきた としすけ;1844.04~1891.03.08.)は、条約改正交渉の話を聞き、この「波及」問題を心配してワシントンD.C.に駆け付け、英国留学生有志の代表として、木戸孝允に改正交渉の中止を訴えていました。
こうして条約改正交渉が中止となったため、使節団はその目的を米欧の現地調査と資料収集に集中したのでした。結果的に見れば、米国で天皇の全権委任状を待つ約4カ月間の足止めは、むしろ情報収集のための絶好の期間となったと考えられます。たとえば、使節団は米国滞在中に米国憲法の翻訳や解釈の作業にも取り組んでいました。
条約改正交渉の実質的成果はほとんど得られませんでしたが、岩倉具視は米国特許庁を訪問し、また、各国の特許制度に関する大量の資料を持ち帰ります。また、岩倉使節団の一員(随行記者・記録係)として欧米を視察した佐賀藩出身の漢学者にして歴史家である久米邦武(くめ くにたけ;1839.08.19.~1931.02.24.)が、帰国後に『特命全権大使 米欧回覧実記』(とくめいぜんけんたいし べいおうかいらんじっき)(全100巻、5編5冊、2110ページの洋装本)を独力で執筆・編修し、これが岩倉使節団の在外見聞の報告書です(太政官記録掛から明治11年、1878年刊行;御用出版社である銀座の博聞社から出版)。(この実記は、311点の細密銅版画挿絵を含む、訪問した米欧12カ国と復路に寄港したアフリカ・アジア各地での見聞の克明な記録です。実記には実録的・客観的記述の他に、著者の見解(主観)も追加されています(つまり、事実と主観が明確に区別されています)。なお、著者自身が実記の「例言」(凡例)において、「本書は使節団の公務自体に関する報告書というよりも、公務以外の行動や各国各地で見聞した『実況を筆記す』」との趣旨を述べています。片仮名まじりの文語体の名文で叙述されています。(出展:田中 彰 『岩倉使節団「米欧回覧実記」』 岩波現代文庫))これらの資料や記録が、日本における特許制度の整備作業においては大きな役割を果たしました。また、特許制度にとどまらず、この視察団の見聞や経験は日本の近代国家への変貌過程に極めて大きな影響を与えました。日本近代化の原点となる旅とも言われ、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき大きな意味をもつ使節だったと考えられています。

(日本の特許制度の夜明け前の試行錯誤:「専売略規則」の制定と廃止)
18歳の是清は九州唐津藩に新設された英語学校(「耐恒寮」;現在の唐津東高の前身)に英語教師として招かれて赴任するのですが、その数カ月前、明治4年(1871)4月7日に明治政府は「専売略規則」を制定します。この「専売略規則」では発明明細書や絵図面などの提出を求め、一定期間の専売の権利を認めており、日本における特許制度の「前史」となるものでした。
ところが、出願内容を十分に審査するには政府の組織(審査体制)が貧弱でした。もしも十分な審査を行なおうとすれば外国人専門家(高額報酬を要する)を何十人も雇う必要があり、加えて彼らと同数の通訳官も探さねばならなりません。さらに、この規則を利用して出願された発明は専売権を与えるにはあまりにも技術水準が低く(たとえば、せいぜい人力車程度)、大きな費用と労力をかけて審査体制を整えたとしても、それに見合う産業発展成果はとても望めない状況でした。加えて、19世紀後半の欧州(イギリス、ドイツ、オランダなど)では特許制度への批判的意見や廃止論が噴出しており(具体的には、特許制度は独占に基づく制度であるから問題であるとする主張、技術発達の妨げになるという意見、欧州のなかで産業の遅れた国にとってはその経済発展に不利となるという意見、さらには特許制度は自由貿易に反するという批判など、さまざまでした)、この影響もありました。こうした事情から、「専売略規則」は制定から1年後の明治5年(1872)に廃止されます。

(特許制度の必要性の再認識)
しかし、一方、新技術はひんぱんに開催された博覧会によって知ることができ、ときには優れた技術に基づく発明品が展示されることがありました。しかし、発明品の展示は模倣を誘うことになりました。発明者にはなんの利益も特典もなく、模倣のされ損となりました。具体的には、僧侶にして発明家 臥雲 辰致(がうん たつむね;名は「たっち」、「ときむね」とも;1842.09.19.~1900.06.29.)は明治6年(1873)に最初の臥雲式紡績機(ガラガラという運転音から、通称「ガラ紡」)を発明し、改良し、連綿社を設立してガラ紡製作を事業化します。そして紡績機を明治10年(1877)に東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会に出展して最高の賞である鳳紋賞牌を受賞します。こうして臥雲式紡績機は各地に広まりますが、画期的発明ながら簡単な構造であり、また、特許制度による保護が存在しないために模造品が各地に続出し、連綿社は苦境に陥り、1880年には閉鎖します。このことを機に、特許制度の必要性が改めて強く訴えられるようになります。

(日本の特許制度の夜明け:「専売特許条例」の公布)
このような時代の流れを背景に、明治政府は明治17年(1884)に「商標条例」(是清が委員長となり部下3人と共に草案を作成)を公布し、それに続いて明治18年(1885)に、是清が起草した「専売特許条例」を公布します。ここに日本最初の特許制度がスタートしました。この「専売特許条例」では外国人には特許権が認められませんでした。(日本の特許が(技術水準の高い)外国人に独占されてしまうことをおそれたためです。また、のちの不平等条約改正交渉の際の取引材料する意図があったとも思われます。)

(臥雲辰致の功績:ガラ紡による、日本第一次産業革命達成への多大な貢献)
臥雲辰致は、臥雲式紡績機(ガラ紡)の後にも新たな織機(蚕網織機;さんもうはたき)・7桁計算機・土地測量機なども発明し続けます。蚕網織機を第3回内国勧業博覧会(明治23年;1890年4月1日~7月31日 東京上野公園にて)に出品したとき、熱心に観察していた青年が豊田佐吉(とよだ さきち;1867.03.19.~1930.10.30.)だったといわれ、蚕網織機がその後の豊田佐吉の自動織機の発明につながり、現在のトヨタ自動車につながったとされています。偉業は当時も世間に認められ、臥雲辰致は発明の功績により1882年に藍綬褒章を授与されました。1892年に文部省編纂の『高等小学校修身教科書』に事績が掲載され、1893年に『日本修身書』に事績が掲載され、1915年に『実業修身教科書』に臥雲辰致伝が掲載されました。57歳で病没しましたが、ガラ紡以外の発明からの収益で晩年には生活に余裕ができたようです。
臥雲辰致が臥雲式紡績機の発明に情熱を傾けた時代背景とは…。明治維新後の日本は、欧米列強の帝国主義に対して富国強兵・殖産興業の政策を打ち出します。しかし、工業国として列強と肩を並べていくためには、軽工業(製糸や綿紡績)による第一次産業革命を経て重工業による第二次産業革命へと工業の基礎を築いていかねばならず、日本にとって、綿紡績業は重要な産業でした。明治が始まっても、不平等条約によって関税自主権もない状態でした(1911年に小村寿太郎 外相(こむら じゅたろう; 1855.10.26.~1911.11.26.)のもとで税権の回復が実現されるまで)。維新後の明治元年から10年間に輸入された物のうち36%が綿製品であり、国内で生産された綿製品は全体のわずか2.8%。西欧の高品質な綿製品が無関税のまま大量に輸入され、国内綿業は壊滅寸前に追い込まれていました。臥雲辰致の紡績機(ガラ紡)は、こうした外国綿業の進出に対抗するための熱意よって生み出されたものでした。ガラ紡は、明治維新後、日本の洋式紡績が軌道に乗る前の紡績業を支える役割を果たしました。明治30年(1897)、綿製品の輸出額が輸入額を超えるまで、ガラ紡は、日本と欧米の技術のギャップを埋める役割を果たし、日本の第一次産業革命の達成に貢献しました。もし臥雲辰致による紡績機の発明とその後の改良が無ければ、日本の紡績業は欧米企業に圧倒されたままとなり、現代の日本の姿は大きく変わっていたと考えられます。(出展:安曇野市教育委員会ウェブサイトの記事:「臥雲 辰致(がうん たっち)ガラ紡(臥雲式紡績機)の発明により、日本の産業革命に貢献」)
ガラ紡の原理は手紡ぎに近く、ガラ紡で作成した糸には節があり柔らかく自然な風合いと吸湿性の高さを持つため、現在でも主に自然派志向の人々の人気を博しています。

(人力車の特許も取得されず)
明治の最も有名な発明の1つが人力車です。人力車の発明者については諸説ありますが、一般には福岡藩士 和泉要助(1829.12.20.~1900.09.30)・荷車職人 高山幸助・八百屋 鈴木徳次郎(1827~1881.03.26.)の3名が明治2年(1869)ごろに発明したとされています。明治3年(1870)3月、彼ら3名(発明者)は東京府に対し人力車業の日本橋での営業開始を連名で出願し、許可されます。駕籠・馬車に比べて手軽で敏速・軽快な人力車の人気は急速に高まり、明治4年の東京における人力車の台数は4万台近くあり、明治16年(1883)には全国では16万7千台近くあったとされます(明治16年の日本の総人口は約3760万人ですので、人口225人に1台の割合でした)。人力車最盛期の明治29年(1896)の全国の台数は21万台で、人口199人に1台の割合であったとされます。人力車は文明開化を象徴する花形の乗り物でした。明治維新の農村解体による都市部への人口流入と産業が未発達のために人力は余っており、また、人力車は個人営業できるため、健康な男子(下層階級の)にとっては魅力的な新しい職業だったようです(女性車夫もいたそうです)。人力車は「クルマ」や「ジンリキ」と呼ばれ、現代のタクシーのように、近距離移動と長距離移動のいずれにも重宝されました。1日に80km~100kmを走ることもありました。人力車の強力な競合相手として乗合馬車・軽便鉄道(けいべんてつどう)・鉄道・自転車などが現れますが、人力車の需要と人気は根強く続き、人力車の時代は大正時代の終わり頃(1920年代中頃)にバスやタクシーが台頭し始めるまで続きました。
(余談ですが、江戸時代には、(馬車は軍事・社会・経済的理由により徳川幕府により禁じられていましたが、)駕籠(かご)があり、人力や牛による「荷車」(江戸の大八車、大阪のべか車など)という貨物輸送用人力車両もあったのに、人力車が江戸時代に登場しなかったのは一見不思議な気がします。駕籠と荷車から人力車を着想するのは容易に思えます。しかし、これは「後知恵」のようです。というのは、人力車のような車輪付きの乗り物が適切・快適に運用可能となるためには荒れた路面ではだめで道路整備が必要ですが、江戸時代はそれがありません。また、参勤交代の要路である東海道などの諸街道では、宿駅伝馬制を守るため、幕末まで、町部分を除き荷車の使用は禁止されていました。(文久2年(1862)2月に初めて幕府は、公私荷物の荷車による運送を許可します。慶応2年(1866)に初めて幕府は、江戸市中及び五街道において荷物輸送のための馬車の使用を許可します。)幕末から明治初頭にかけて西洋人が多く日本にやってきて西洋馬車が運行するようになり道路整備が進み、車輪のある乗り物が走ることのできる道が増えたことが人力車という乗り物の登場を促したと考えられています。なお、人力車の上記発明者たちが東京府へ提出した営業許可申請書において、西洋馬車からヒントを得て人力車を着想したと解釈できる趣旨の説明がされています。)
人力車について上記発明者3名以外の重要人物としては秋葉大助(あきば だいすけ;1843~1894;家業は武器・馬具製造で、のちに東京川崎間の乗合馬車業に従事)が知られます。彼は人力車の後発メーカーでしたが、人力車の車体・車両に改良を加えて性能・乗り心地・装飾性を大幅に改善した功績が大きく、明治2年に東京銀座4丁目に「秋葉商店」を開き、「秋葉商店」は当時の人力車トップメーカーとして中国・インド・東南アジアへ年間1万台ほど(またわずかに欧州・米国へも)輸出しました。このように彼は人力車製造業界の最有力者であり、技術改良の才能とビジネスセンスの両方に非常に優れていました。おそらく交渉力も優れていたと推測できます。歴史に「もしも」(if)はないというものの、もしも秋葉大助が発明者3名の仲間に加わっていたら、発明者たちの後述の運命が大きく好転した可能性が十分にあったはずと感じられます。
彼ら発明者3名(和泉・高山・鈴木)は東京府から営業許可を受けたのち、「人力車惣行司」(又は「人力車総行事」とも)という名目で東京府での人力車関連業者(人力車製造業と人力車による運送業の両方を含む)の管理者としての地位を与えられ、行政の末端として人力車関連業者の管理事務を担い、管理手数料を受け取るようになります。(人力車関連業への参入増が惣行司の収入増をもたらす形でした。但し、惣行司としての彼らの収入はさほどの高額ではなく、当時の中間管理職である「手代」と同レベルの収入であったとされます。)彼ら3名(発明者)は明治4年(1871)の専売略規則導入に際し、東京府の勧めもあり人力車について出願したのですが、翌明治5年(1872)に制度が停止され、出願の結果が出ないまま立ち消えとなり、こうして不運にも特許権取得に失敗しました。(なお、仮に専売略規則が廃止されなかったとしても、専売略規則導入時(明治4年;1871)には人力車はすでに公知であったため、特許は得られなかったであろうと推測できます。)さらに、明治18年(1885)に専売特許条例が制定されると再び出願しますが、すでに公知であるとして却下されました。同条例には、専売略規則(明治4年;1871)以後に発明され、地方官に届け出ていたものはすでに公知であっても特許を申請できるとの附則があったのですが、人力車は専売略規則制定時点ですでに存在していた(彼ら3名は明治3年(1870)3月に人力車業の営業を開始していた)ため、「専売特許出願以前二用ヒラレ、又ハ公二知ラレタルモノ」として、この特例の対象にもなれませんでした。こうして人力車は特許化されず、発明者の権利は保護されませんでした。また、発明者としての収入源であった惣行司制度は明治6年(1873)5月に廃止され、発明者としての地位保全の途は全て失われました。惣行司制度の廃止に当たって東京府は1人100円ずつの手数料を下付しますが、それでは発明者3名は納得せず、大蔵省への嘆願を行ないます。大蔵省はこれまでに東京府が集めた諸車税のうちから2,000円を一時金として下付するかわり、今後の嘆願には一切応じないと申し渡します。(出展:今泉 飛鳥「特許制度の導入プロセスとその社会・経済的意義 - 人力車発明問題再考」、『社会経済史学』83-2 (2017年8月))
上記臥雲式紡績機(ガラ紡)が特許制度による保護を得られなかったのと同様の深刻な問題が人力車についても生じたわけで、このような経緯から特許制度の必要性が確認されて復活が求められ、是清の起草した「専売特許条例」公布(明治18年;1885)のへとつながりました。

(「専売特許条例」公布後の進展)
明治18年(1885)の「専売特許条例」制定後、出願件数は順調に伸びていきました。しかし、発明の技術水準はまだとても低く、靴や足袋(たび)、扇子(せんす)といった日常品に重点が置かれていました。
明治23年(1890)に特許局事務官が「東京特許代言社」を神田と築地に開設し、これが弁理士の仕事のはじまりといわれています。
明治32年(1899)、不平等条約改正とひきかえに、外国人にも特許出願を認めた特許法が施行され、同年パリ条約にも加盟しました。
外国人にも特許出願を認めた特許法はできたものの、外国人による特許の独占をおそれて明治政府は外国人に特許を与えることを嫌いました。厳しく審査をすることで、外国人に特許を与えないようにしましたが、同時に日本人の出願に対しても厳しく審査することとなり、もともと技術水準の低い日本人の特許出願をほとんど拒絶することになりました。この事態を産業政策上得策ではないとみた政府は、明治38年(1905)にドイツの実用新案制度を取り入れて、現在の実用新案制度の基礎ができました。
(出展:守誠 著『特許の文明史』; 幸田真音 『天祐なり 高橋是清・百年前の日本国債 上』; 日本弁理士会ウェブサイトの記事「弁理士の歴史」; 今泉 飛鳥「特許制度の導入プロセスとその社会・経済的意義 - 人力車発明問題再考」、『社会経済史学』83-2 (2017年8月); 小林 聡 「江戸時代における発明・創作と権利保護」、パテント,Vol. 61, No.5, pp.48-55 (2008); ウィキペディア(Wikipedia)の「万延元年遣米使節」の項目; ウィキペディア(Wikipedia)の「岩倉使節団」の項目; 沼田次郎/松沢弘陽 『日本思想大系第66巻 西洋見聞集』 岩波書店(1974); IPWatchdogサイトの記事: Smithsonian Exhibition on Innovation in 19th-Century America, March 6, 2011; 安曇野市教育委員会ウェブサイトの記事:「臥雲 辰致(がうん たっち)ガラ紡(臥雲式紡績機)の発明により日本の産業革命に貢献」)

〔特許局勤務までの道筋〕
是清は、前記米国留学からの帰国後、大学南校の教官三等手伝、放蕩生活、芸者置屋の手伝い、唐津藩の英学校 耐恒寮での教職を経たのち、米国留学時からの親友 鈴木智雄の紹介で、大蔵省駅逓寮(駅逓局)の通訳翻訳掛(大蔵省十等出仕)の職を得て初めて官吏となります(明治5年(1872)9月)。しかし、駅逓頭 前島密(えきていがしら まえじまひそか)と衝突してほどなく辞任します。このように職場で意に染まぬことがあるとすぐ辞めてしまうという短気なところが若き是清の悪い癖でした。彼自身もそれを自覚し反省していたので、修行のため、かつて自分が教えていた大学南校(開成学校と改名していた)に試験を受けて入学し、かつての教え子と同級生となり、勉強しました。
是清はこの頃、オランダ生まれの米国人宣教師グイド・フルベッキ(1830.01.23~1898.03.10)の屋敷に世話になっており、その縁で、末松謙澄(すえまつけんちょう;1855.08.20~1920.10.05)と知り合い、是清は末松に英学を、末松は是清に漢学をと、得意な学問を互いに教えあう親友となります。天才的能力を持つ末松は直ぐに英語をマスターし、それから2人は協力して、フルベッキの元に届く米国や英国の新聞を邦訳して東京日日新聞社に売る仕事をしました。(その後の末松謙澄の出世と活躍はたいへんなものです。東京日日新聞にいた福地源一郎(1841.05.13~1906.01.04))に学才を認められ、福地の紹介で伊藤博文や西郷従道の知遇を得て正院御用掛(最高官庁の用務職員)として政府へ入り、西南戦争において西郷隆盛への「降伏勧告状」の草稿作成;「大日本帝国憲法」の起草;『源氏物語』を初めて英訳出版し世界へ紹介;日露戦争では伊藤博文ら明治政府元老たちの命により渡英して黄禍論を抑え、ロビイストとして日本の勝利に大きく貢献など、功績を数え上げればきりなく、日本への貢献度では是清に引けを取りません。第4代 法制局長官、第7代 逓信大臣、第15代 内務大臣を勤めました。末松の妻 生子(いくこ;1868~1934)は伊藤博文の次女。)
是清は、翌年(明治6年(1873))の10月、森有礼から、文部省御雇いの米国人顧問(文部学監)ダビッド・マレー博士(1830.10.15.~1905.03.06.)の通訳(文部省十等出仕)の職を推薦されて、再び官吏となります。やがて、明治8年(1875)10月にマレー博士がアメリカ合衆国独立100年記念博覧会の視察で米国出張のため離日したのを機に通訳職を解かれ、大阪英語学校の校長職に転勤を命ぜられます。しかし、転勤前のあいさつのため、米国からの帰国の際および帰国直後に世話になった知人(一條十次郎)を訪れた際に、ふとしたなりゆきで彼に強く誘われ、彼と共に仏教研究を行なうことになり、なんと文部省を辞めてしまいます。是清は過去に一條に世話になったことに大きな恩義を感じており、彼を見捨てることができないという事情がありました。一條宅に半年間閉じこもって2人で仏教研究を行なったところ、彼の思想の間違いに気付き、研究をやめて一條宅を出ます。そして、鈴木智雄のいる東京英語学校(文部省管轄)に教員の職を得ます(明治9年(1876)5月)。しかし、東京英語学校校長のスキャンダルが新聞報道され、同僚 赤羽四郎と共にその真偽を校長に詰問し、事実であると聞いて辞職を勧告し、校長を辞職に追い込んだ責任を取り自分たちも辞職します(明治10年(1877)4月)。その後、共立(きょうりゅう)学校を開校(再興)して校長となったり、教師をやったり、翻訳業を行なったり、乳牛事業の詐欺にあったり、銀紙相場(銀貨と紙幣の相場)の相場師をやって失敗したり、相場に興味を持って、相場の研究をするため米の仲買店(「六二商会」)を経営して失敗したりしました。ここまででもすでに十分に波乱万丈ですが、このあとに一層の波乱(後述のペルー銀山事件など)が待ち受けているところが、是清の人生です。

〔特許局での活躍〕
明治14年(1881)の4月に、友人たちの推薦で文部省(地方学務局勤務、大学予備門兼務)に職を得て、5月になって農商務省から引き抜かれます。農商務省の工務局に配属され、調査課勤務を命ぜられ、もっぱら「商標登録並びに発明専売規則」の作成に従事します。こうして官吏としての本格的な仕事が始まります。農商務省の官吏として商標制度・特許制度の制定に尽力し、また、制度取調局長官 伊藤博文(1841.09.02~1909.10.26.)の命を受け外国の商標登録専売特許制度調査のために欧米視察を行ないました(明治18年(1885)11月末から1年間)。また、農商務省工務局商標登録所の初代所長、現在の特許庁長官にあたる農商務省専売特許局所の初代所長、及び特許局の初代局長を務めました。より詳しくは以下です。明治17年(1884)10月に農商務省工務局商標登録所 初代所長に就任、明治18年(1885)4月に農商務省専売特許所 初代所長(兼務)に就任、明治20年(1887)12月に特許局 初代局長に就任。

日本特許第1号が付与されたのは上記欧米視察に向かう少し前の時期で、堀田瑞松(ほったずいしょう;1837.05.16~1916.09.08)が出願した船底防錆塗料である「堀田鑛止塗料及ビ其塗法」(錆止め塗料とその塗り方)が明治18年(1885)8月14日に日本特許第1号 として認められました。上記特許日にちなんで8月14日は「専売特許の日」になっています。

(欧米視察)
31歳の是清が赴いた上記欧米視察の日程は明治18年(1885)11月末から1年間にわたり、米国・英・仏・独の各特許庁を訪問し、欧米特許制度についての多くの貴重な資料と情報の収穫を得ます。米国ワシントンには約3カ月間滞在し、米国特許庁(1836年創設)での収穫は、質も量も特にレベルの高いものでした。
是清が米国特許庁を訪問した時点(明治19年(1886)1月)から50年も前に、米国の1836年特許法(Patent Act of 1836)により、独立した組織としての米国特許庁が初めて明文化され創設されたのですが、それより更に46年も前の、最初の米国連邦特許法である1790年特許法(Patent Act of 1790)の成立のときから、特許出願を処理する組織(後述の、トマス・ジェファーソンを中心とする特許審査合議体である「特許委員会」)は存在していました。したがって、是清が米国特許庁を訪問した時点で、米国の連邦特許制度にはすでに96年の歴史がありました。
是清は米国特許庁に毎日通い、特許庁事務官スカイラー・デュリーのこまやかな指導を受けます。デュリーはとても親切な好人物でした。デュリーは特許庁の組織図をもって一通り説明したのち、経理部、出願部、審査部、製図部、審判部長室、図書館、模型室等を順次案内して各部局の連絡系統を示し、また各部局の担当者を紹介してくれました。是清は、米国特許庁の各部局への自由な出入りを許され、帳簿のつけ方、絵図面の取扱い方、書類の整理方法等を詳しく修得しました。是清は、第20代米国特許庁長官モンゴメリーの口述筆記を速記士がタイプライターを用いて行なうのを見て、驚きます。タイプライターを初めて見た是清は、この文明の利器にすっかり魅了されます。
是清は、米国でのこの調査の成果が日本の特許制度に重大な影響を持つことを承知していましたので、特許法規その他の参考資料や模型などをできるだけ多く収集するように努めます。また、特許庁が毎週発行している公報(ガゼット)及び判決録並びに明細書等を是非過去5年間さかのぼって入手したいと考えました。しかし通常料金で購入すると合計15,000ドルにもなるので不可能なため、是清は思い切ってデュリーに、無料でもらえないかとたのみます。デュリーは、「無料にはできないが、交換ということにしましょう。日本で同様の文書が発行されるようになったら、それを送っていただければよい」といってくれて話がつき、書類をもらい受けました。受け取った大量の書類(5年前から今日まで並びに今後発行されるべきガゼット、判決録、明細書並びに図面等)はニューヨークから船便で日本に送られ、特許局で大事に保管され活用されます(が、惜しくも関東大震災(大正12年;1923)で焼失します)。
是清はワシントン滞在中にデュリーと親友になり、デュリーの自宅へも何度も招かれて、大歓迎されました。デュリー夫人とも親しくなり、夫人は是清を気に入るあまり、生まれたばかりの息子に「コレキヨタカハシ・デュリー」と命名してしまい是清を驚かせます。日本でも外国でも、是清は人に好かれることの達人でした。
米国特許庁には女性職員が多く、彼女たちに業務内容について詳しい訊ね事をするためには親しく交わる必要があります。女性職員と話をすると、彼女たちがしばしば「あなたはダンスをおやりですか」と是清に聞くので、彼女たちと親しくなるには社交ダンスの習得が有効と分かり、是清は毎朝10時に米国特許庁に出向く前に社交ダンスを習うことまでしていました。

(米国特許弁護士アール氏事務所への訪問)
是清は、米国視察の仕上げとして、米国特許庁のデュリーに紹介された、コネチカット州ニューヘブン在住の特許弁護士アール氏の事務所を訪問します。是清は自伝の中でその際の様子をかなり詳細に述べています。少し長いですが以下に引用します。

「アール氏は米国著名の特許弁理士で、本業務に従事すること35年、非常に錬達堪能の人として知られていた。訪問に先立ち、あらかじめ電報を打っておいたので、アール氏はわざわざ停車場まで出迎えていられた。早速氏の馬車に同乗して事務所に行ったが、その内容の充実整頓せるには、一驚を喫した。ことに図書室の中には、啻(ただ)に米国のみならず、英仏の特許に関するあらゆる参考書が、極めて豊富に蒐集されてあった。しかもそれらの書類は、いずれもワシントンにおける特許院の方式に模して、見事に整理分類され、一目の下に、必要なる書類を択(よ)り出すことが出来るようになっていた。
 アール氏の話では、特許弁理士の主要な職務は、発明者の依頼により、発明の明細書及び図面を作成することであって、その最も困難とするところは、発明の請求区域を分明ならしめることである。その報酬として受取るべき手数料は、仕事の難易、それに要する時間の長短に比例すべきものであえて一定していないということであった。
 また曰(いわ)く工場における発明の多くは職工によってなされるものである。その場合、雇い主(あるいは会社)が自ら譲り受けて、その保護者となるのである。万一特許権を犯せる者ある場合は、犯人の住所地の区裁判所に訴えることになっている、等々いろいろと特許事務に関する有益な話があった。
 ニュウヘブンには三日間滞在したが、その間にアール氏と共に、ウィンチェスター連発銃製造会社、掛時計販売会社、釣針製造所等を参観した。その後アール氏とはたびたび往来した。そうして特許事務等にて疑問を生じた場合には、早速書面で質問したが、氏はいつも懇切丁寧に返事を寄越してくれた。」(『高橋是清自伝(上)』より)

このように、米国特許弁護士アール氏の事務所は当時(明治19年;1886)すでに現代の特許事務所と同様の立派な体制を整えていました。そして、アール氏は特許弁護士の仕事について、「その最も困難とするところは、発明の請求区域を分明ならしめることである」、つまり、権利主張する発明の範囲を明確に規定すること、という要点を是清に教えてくれました。是清は、アール氏から特許弁護士業務の要点全てを伝授されたと思われます。
こうして是清が米国視察を通じて得た膨大な知見と参考資料は、その後の日本知的財産制度の発展にとても重要な影響を与える貴重なものとなりました。

(米国の知的財産制度はなぜそれほど発展していたのか)
当時の米国は知的財産制度の超先進国であり、・英・仏・独とは比較にならないほど進んでいました。米国の知的財産制度が当時既にそれほど発展していた最大の理由は、1789年に発効したアメリカ合衆国憲法において、発明者と著作者に対して「期間を限定した独占的権利」を保障する条項(合衆国憲法 第1章第8条第8項)が設けられていたからです。その条項は以下です。

"The Congress shall have Power ..... To promote the Progress of Science and useful Arts, by securing for limited Times to Authors and Inventors the exclusive Right to their respective Writings and Discoveries"
「連邦議会は、著作者および発明者に対し、一定期間その著作および発明に対する独占的権利を保障することにより、学術および有益な技芸の進歩を促進する権限を有する。」

このように、現在では知的財産分野の国際標準(global standard)となっている、「発明者と著作者に期間を限定した独占的権利」を与える」、という基本原理が今から230年以上も前にアメリカ合衆国憲法(1788年6月21日批准; 1789年3月4日発効)には規定されていました。
上記条項(合衆国憲法 第1章第8条第8項)は「copyright(著作権)」や「patent(特許)」という限定的用語に言及せず、保護の対象が「writing(著作)」および「discovery(発見)」と広く表現されていますので、(「writing」や「discovery」が「author」や「inventor」によりなされたものであり、権利保護の期間が限定される必要がある以外には、)知的財産分野の立法における連邦議会の権限には制限がありません。

上記条項が設けられたことには特別な経緯や事情があったのですが、上記条項の必要性の観点から要点をごく簡単にまとめますと、以下の通りです。
合衆国憲法起草時の米国には、蒸気船(steam boat)の発明家たち(ジョン・フィッチ、ジェイムズ・ラムゼイ、アーサー・ドナルドソン、ロバート・R・リビングストン、歴史上有名なロバート・フルトン)が、それぞれ自分が活躍している州(すなわちペンシルバニア、バージニア、メリーランド、ニュージャージー、ニューヨーク)の各州で特許を申請しており、混乱をきたしていました。アメリカ13州連合(the Confederation)の時代(1781~1789)(つまり、英国からの独立後、合衆国憲法制定前の時代)には、米国の大半の州はそれぞれの特許法を持っていましたが、それによる発明者の権利保護は充分ではありませんでした。このような蒸気船の各州個別の特許問題を通じて、アメリカ合衆国全体として統一を図る必要性から、「連邦議会が一定期間の特許権および著作権を保障する」という憲法の条文が生まれたのでした。(出展:守誠 著『特許の文明史』)
また、上記条項(合衆国憲法 第1章第8条第8項)が設けられた背景にはさらに、米国初代大統領ジョージ・ワシントン(合衆国憲法制定会議議長)と第3代大統領トマス・ジェファーソン(独立宣言の主な起草者であり、また、合衆国憲法制定に大きな影響を与えた)がいずれも発明好き(発明家)で知られており、特にジェファーソン(1743.04.13.~1826.07.04.)はワシントン(1732.02.22.~1799.12.14.)をはるかに上回る発明好きでした。つまり、米国の「建国の父たち」(the Founding Fathers)の筆頭に挙げられる上記2人の最重要人物たちが発明に強い関心を持っていたことが、上記条項が設けられた理由の一つと考えられます。
ジョージ・ワシントンは軍人出身でした。トマス・ジェファーソンは弁護士出身で、思想家であり、学問・研究・読書・著述が大好きでした。独立宣言起草委員会(ジョン・アダムズ(1735.10.30.~1826.07.04.)、ベンジャミン・フランクリン(1706.01.17.~1790.04.17.)、トマス・ジェファーソンの3人で構成)のうちでジェファーソンは一番筆が立つので、独立宣言(Declaration of Independence)草案の執筆を任されました。独立宣言の多くの表現が、かつて英国における民権運動を支えた哲学者・政治思想家 ジョン・ロック(1632.08.29.~1704.10.28.)の自然権思想に由来すると言われています。つまり、ジェファーソンは、ジョン・ロックの自然権思想を独立宣言のベースにしたわけです。
トマス・ジェファーソンはフランス駐在公使としてパリ駐在中(1785~1789)に、のちに合衆国憲法の主な起草者となり「アメリカ合衆国憲法の父」と呼ばれたジェームズ・マジソン(1751.03.16~1836.06.28; 第4代大統領)と膨大な往復書簡を交わしており、これら書簡を通じて合衆国憲法制定に大きな影響を与えたとされ、特に、上記条項(合衆国憲法 第1章第8条第8項)の作成には大きな役割を果たしたとされています。なお、上記条項の元になる3個の表現案が1787年8月18日に憲法制定会議に提案されており、チャールズ・ピンク二ー(1757.10.26.~1824.10.29.)が1個を提出し、ジェームズ・マジソンが2個を提出しました。これらの表現案が詳細検討委員会(the Committee on Detail)により編集されて上記条項が作成されて1787年9月5日に憲法制定会議に報告され、同年9月17日に憲法制定会議により承認されました。
ジェファーソンの研究家によると、ジェファーソンと親交のあったマジソンへの書簡を含めたジェファーソンの著述には、発明者など創作者の利益と公共の利益との間のバランスへのジェファーソンの関心の高さが顕著にうかがえます。マジソンと書簡で意見交換行なう前は、ジェファーソンは独占(monopoly)を悪と考えており、合衆国憲法に上記条項(合衆国憲法 第1章第8条第8項)を入れることには反対だったのですが、マジソンと書簡をやり取りするうちにマジソンの助言を受けて考えを改めて、一定期間の独占権を創作者に与えることが創造への励み(incentive)となり、優れた若い科学者や技術者を米国に引き寄せたり、科学や産業を振興して国全体の利益となると考えるようになりました。つまり、「独占」という「毒」に「一定期間」という制限を設けることで、毒を薬に変えることによる国富増進方法を米国の土台となる合衆国憲法に組み込んだということになります。ただし、特許によって創造活動を奨励するという考え方は、元々ワシントンもマジソンも持っていたので、ワシントンとマジソンとジェファーソンの3人の合作ということになります。
念のために申しますと、「独占権」を「一定期間」認める内容の特許法は合衆国憲法制定(1789年)の165年前に存在し、それは、1624年発布の英国の「独占大条例」(The Statute of Monopolies)です。英国の「独占大条例」の5条と6条(例外規定)が近代的特許法のモデルとなった新規の特許発明について規定し、「独占権」を「一定期間」(14年以下)認めるという内容で、また、独占権の目的が独占期間満了後の公益にあることが明記されていることから、世界の法制史上、一般に、英国の「独占大条例」が近代特許法制度の原型と言われています。
ジェファーソンは、最初の2つの米国連邦特許法(1790年特許法と1793年特許法;Patent Act of 1790 and Patent Act of 1793)に大きな影響を及ぼした人物であり、米国特許制度の最初の管理者(first administrator)(実質的な初代米国特許庁長官)であり、また、最初の特許審査官(first patent examiner)であり、より正確には、1790年特許法(Patent Act of 1790)により設置された特許審査合議体である「特許委員会」(Patent Board)の1人でした。特許委員会は、国務長官(Secretary of State)トマス・ジェファーソンと陸軍長官(Secretary of War)ヘンリー・ノックス(1750.07.25.~1806.10.25.)と司法長官(Attorney General)エドマンド・ランドルフ(1753.08.10.~1813.09.12.)の3人からなり、国務長官であるトマス・ジェファーソンが中心的役割を果たし、3人のうちジェファーソンが最初に審査しました。

1790年特許法は、フランス駐在時代に欧州の特許制度を調べてきたジェファーソンの知見を活かして、欧州の特許制度の良い点を採用した特許法として作成されました。特許期間は14年です。しかし、1790年特許法により設置された「特許委員会」による特許審査は非常に遅滞して、1790年に特許許可となったのはわずか3件でした。多忙な要職にある特許委員会の3人が片手間に審査するのであり、また、3人のうち発明を理解する技術的知識があるのはジェファーソンだけという状況でしたので、審査が遅滞するのは当然といえます。審査の負担はジェファーソンに重くのしかかり、ジェファーソンを非常に苦しめました。その後の特許許可の件数は、1791年が33件、1792年が11件、1793年の1月までが10件で、遅滞が続きました。更には、「審査に一貫性がなく、また、恣意的である」との発明者たちの批判の声が高まっていました。
その結果、1793年の2月に特許法が改正され、1793年特許法が発布されます。1790年特許法とは正反対に、1793年特許法は純粋な登録主義であり、出願は無審査で特許になりました。つまり特許の付与は単なる事務手続きとなり、その結果、多数の相互に抵触する特許が付与されて混乱状態となり、やがて特許の価値もなくなってしまいます。
このような1793年特許法の問題点の改善を強く訴えたのが、発明家でありメイン州選出上院議員のジョン・ラグルズ(1789.10.08~1874.06.20.)で、彼の訴えを受けた議会は、1836年特許法を成立させました。1836年特許法では審査制度が復活し、また、独立した組織としての米国特許庁が創設されました。審査は、科学と技術の諸分野の専門家たちによる審査員団が行ないました。特許期間は従来通り14年ですが、請求により7年間の延長が認められるようになりました。こうして、1836年特許法により、特許は再び価値あるものになりました。1951年に近代の米国特許法ができるまでは、1836年特許法は部分的に改正されただけで使われ続けました。特に重要な改正は、1870年改正で特許期間が最長17年に延長されたこと、及び、1930年改正で植物に特許が付与されるようになったことです。

(米国建国の父たちの発明)
ワシントンもジェファーソンも特許出願はしませんでした。彼らの発明は、主に、身の回りや家庭生活や畑仕事・農作業を改善するためのものであったからのようです。米国建国当時の開拓は農地の開拓でしたので、発明の対象が農作業関連なのは自然なことです。ジェファーソンは、「紳士は自分の頭脳と手の産物で金をもうけるわけにいかない」と書いており、発明を特許にして金をもうけるのは紳士的ではないと考えていました。ワシントンにも同様の紳士のプライドがあったのかも知れません。
しかし、とにかく彼らは発明が好きでした。ワシントンは、若いころには鋤(すき)(plow)の発明に熱中しており、種まき機能を有する「たる型の鋤」(drill plow)という発明が有名です。ワイン・コースター(卓上用車輪付き可動式ワイン置き)の発明もあります。また、ワシントンは晩年(1794)に、馬を利用する脱穀用の略円形納屋(16-sided threshing barn)を発明しています。
ジェファーソンの発明は多岐にわたり、たとえば、折り畳み式の携帯用机、回転椅子、乳母車の折り畳み式日よけ、3本足のキャンプ用折り畳み式椅子、マカロニ押出し機(macaroni machine)、鋤(すき)への改良案(iron moldboard plow)、ジョン・アイザック・ホーキンス(John Isaac Hawkins)が1803年5月17日に米国特許を取得した複写器(polygraph (duplicating device); 原本と同時に複写を作成する装置)への改良案、機械式暗号機(cipher wheel)などがあります。
他の建国の父たちにも発明好きの人物がおり、上記ジェームズ・マジソンや、避雷針の発明で有名な科学者の上記ベンジャミン・フランクリン(1706.01.17.~1790.04.17.; 独立宣言起草委員であり、憲法制定会議代議員)がそれにあたります。マジソンは、顕微鏡を内蔵した杖を発明しました。フランクリンは遠近両用メガネ(bifocals)も発明しました。

(特許を取った唯一の米国大統領)
歴代米国大統領のなかで米国特許を取得したのは第16代大統領のエイブラハム・リンカーン(1809.02.12.~1865.04.15.)だけです。米国特許第6469号(「船に浅瀬を乗り越えさせること(Buoying Vessels Over Shoals)」; 1849.05.22.発行)を得ています(容量調節可能な浮力のある蛇腹式空気チャンバーを船に取り付けて、喫水線を即座に下げる効果を達成する発明です)。リンカーンは18歳から22歳のころまで、渡し船の船頭や農作物を手漕ぎ船で3カ月かけて輸送する仕事をしたことがあり、その際に、オハイオ川とミシシッピ川の浅瀬で座礁して苦労した経験から生まれた発明です。リンカーンは弁護士でしたが、ときおり特許弁護士業務も行っており、特許出願業務にも通じていました。リンカーンは南北戦争中には、大統領として、いろいろな発明家の軍事技術の戦争利用を検討していました。リンカーンは特許制度に関心が深いことで有名で、1859年2月11日に行なった「発見と発明(discoveries and inventions)」というテーマの演説で以下の様に述べました(有名な一節です)。

「特許法は1624年にイギリスに始まり、この国アメリカでは憲法が採択された時に始まった。それまでは他人が発明したことを誰でもすぐに使ってよかったので、発明者は自分の発明から特に利益を得ることはなかった。特許制度がこの状態を変え、発明を一定期間独占的に使用する権利を発明者に保障することにより、特許制度は、新しい役に立つものごとの発見や製造における天才の火に利益という燃料を加えた」

(アメリカ合衆国憲法制定以前の欧州特許制度)
歴史的資料によると、世界で最初の特許はイタリアのフィレンツェ共和国が1421年に建築家フィリッポ・ブルネレスキ(ルネサンス建築様式の創始者の一人)に与えたとものと言われます(対象は、大聖堂建設用の大理石運搬用の資材運搬船の発明で、特許期間は3年間)。
世界最古の成文特許法(1474年発効の「発明者条例」)の下に最初に発明者に特許を与えたのはイタリアの都市国家 ベネチア共和国です。ベネチア特許法の特徴は以下の(1)~(4)です。(1)新規で独創的な技術にのみ特許が与えられる、(2)特許は特定の期間(10年間)のみ存続する、(3)特許は、公式記録として政府機関に登録される、(4)特許侵害の判定は裁判所に委ねられる。成文特許法下ではありませんが、(ベネチア特許法より前、)ベネチア共和国が1443年にアントニウス・マリニの特許出願(「水なしで動く製粉機」)に与えた特許が制度として与えられた最初の特許と言われています。ベネチア特許法下でガリレオ・ガリレイ(1564.02.15.~1642.01.08.)の特許出願(「螺旋回動型ポンプ」)に1594年に与えられた特許は、出願時のガリレオの切々とした請願書に基づき、独占権を20年間認めるものになっています。
前記のように、1624年発布の英国の「独占大条例」(The Statute of Monopolies)の5条と6条(例外規定)が近代的特許法のモデルとなった新規の特許発明について規定し、「独占権」を「一定期間」(14年以下)認めるという内容で、また、独占権の目的が独占期間満了後の公益にあることが明記されていることから、世界の法制史上、一般に、英国の「独占大条例」が近代特許法制度の原型と言われています。
なお、日本特許庁ウェブサイトの産業財産権制度の歴史の説明の中で述べられる見解としては、「近代特許制度は、中世ベニスで誕生し、イギリスで発展したといわれています」、と記載されています(ベニスはベネチアの英語名です)。

(江戸時代の「新規御法度(しんきごはっと)」のこと)
アメリカ合衆国憲法において産業振興のために発明が奨励されていたのとは対照的に、日本では、5代将軍徳川綱吉の時代の元禄17年(1704)と8代将軍徳川吉宗の時代の享保6年(1721)に、「新規御法度(しんきごはっと)」の触れ書きが徳川幕府から出されていました。1704年は、英国の前記「独占大条例」(The Statute of Monopolies)(法制史上、近代特許法の原型とされる)の発布(1624年)の80年後で、また、英国の産業革命(1770年代~1830年代)の始まる約70年前の時期です。「新規御法度」は、呉服・道具・書物・菓子などあらゆるものについて、新規なものを製造販売することが禁じられました。長い間売ってきたものの、色や素材を変えることも禁止となりました。この政策には、贅沢禁止の目的、及び、既得権益と社会・経済秩序を守る目的に加え、物価上昇抑制の目的(職人が発明に力を入れると在来品の生産量が下がり、物価上昇につながるため)があったと思われます。江戸時代半ば(1740年ころ)を過ぎると「新規御法度」はほとんど有名無実となっており、各藩は競って新技術・新産業・新商品を求めるようになっていきました。しかし、欧米が鉄・蒸気機関・電信機といった進んだ発明と特許の関係を論じているとき、日本では塗物、紙、ロウソク、醤油、お茶、鋳物、木綿など日常生活の中の小物の改良・改善に関する工夫や技法を問題にしていました。もちろん、築城といった巨大技術もありましたが、それは例外中の例外でした。

(欧米視察ののち)
是清は欧米視察を終えて明治19年(1886)11月末に帰国します。帰国した是清は、まず報告書を作成し、次に、商標条例・意匠条例・特許条例を起案します。条例案は参事院で審議され、審議難航の末、明治21年(1888)12月18日に商標条例・意匠条例・特許条例が発布され、翌年2月1日から施行されます。
また、欧米視察から帰国後の是清は、それまで農商務省内に置かれていた専売特許局を廃止し、特許局を独立させるように各方面に陳情します。陳情の趣旨は以下の通りです。「日本における工業所有権保護に関する局が、農商務省の一局として置かれ、特許料、登録料を一般会計と混同させるようでは、内部の充実がはかれない」。 特許局が独立するとなれば局内に庶務部・検査部・審判部・陳情室などを置くことになり、そのためにはかなり大きな建物を新築しなければなりません。是清は、米国特許庁舎の小型のものを目指します。是清が色々と調べて米国特許庁の建物などを参考に部屋数や広さなどの図面を自分で書き、それを基に工部省御雇の建築技師ジョサイア・コンドル氏に設計を依頼すると、12万円の建築費が必要であるとのこと(明治19年(1886)の高橋是清 専売特許局長の月給が150円で、高峰譲吉次長のそれが100円の時代)。この予算を農商務大臣 黒田清隆と大蔵大臣 松方正義にかけあって承認を受けます。
仕上がった建築設計図を新任の農商務大臣 井上 馨に提出すると、質問されます。「こんな大きな建物をこしらえれば、いつまでたっても増改築の必要はなかろう」。これに対して是清は答えます。「まず今後20年です。20年経って、これでは狭いというようにならねば、日本発明界の進歩はおぼつかないと思います。東京見物に来た者が、浅草の観音様の次には特許局を見に行こう、というくらいの建物にしたいと思います」。井上大臣は大笑いして快諾します。日本の知的財産制度の発展にかける若き是清の期待と意気込みが伝わってきます。(出展:特許行政年次報告書2018年度版 『冒頭特集 - 明治初期からの産業財産権制度の歩み』、及び、『人生を逆転させた男・高橋是清』 PHP文芸文庫。)
是清が「浅草の観音様」を引き合いに出したのは、祖母が浅草の観音様への信仰に篤い人であり、その影響で是清自身も観音様を信仰していたからかもしれません。晩年の是清は語ります。「祖母は毎夜私を床の中に入れて置いては、仏前に座って、木魚を叩きながら観音経を誦読され、それから家内安全、無事息災を称えるのが常であった。そして、七つ八つになると、祖母は毎月十八日にはきっと私の手を引いて浅草の観音様へ参詣し、やはり安全息災を称えられた。」(高橋是清 『随想録』よりの引用)。

〔日本財政の守護神〕
是清の業績について更に特筆すべきこととしては、是清は、日銀副総裁・日銀総裁・大蔵大臣として、明治から昭和にかけての大きな3回の財政危機から日本を救いました。3回の財政危機とは、日露戦争(1904~1905)、金融恐慌(1927)、ニューヨーク ウォール街株価大暴落(いわゆる「暗黒の木曜日」)に端を発した世界恐慌(1929)(日本では昭和恐慌)です。

金融恐慌時(1927)のエピソードは前記の通りです。

(世界恐慌への対応)
世界恐慌(1929)への対応に際しては、ケインズの有効需要創出策を経験的に先取りしたといわれる「高橋財政金融政策」(低為替・低金利・財政支出拡大の積極政策)により、世界に先駆けて日本を不況から脱出させました。特に重要な政策が、是清が1931年12月13日に決断した金本位制離脱(貨幣の発行上限の撤廃)と、1932年11月25日に決断した「日銀による歳入補填国債の直接引受け」(「日銀が国債を直接引き受けて市中に貨幣を供給することによって、貨幣量そのものを増量する」という政策)、そして国債の直接引受けで得た財源で行なった財政政策です。是清の財政金融政策の効果はてきめんでした。日本は1931年(昭和6年)の金本位制離脱を転機として、その2年後の1933年(昭和8年)ころには様々な経済指標がほぼ恐慌前の水準まで回復しました。(出展:上念司 『経済で読み解く日本史 〈大正・昭和時代〉』 飛鳥新社)。是清の財政金融政策により、日本は世界においていち早く世界恐慌から脱することができました。
是清は、ケインズ経済学の「有効需要の原理」や「乗数効果」を先取りしたといわれる、次のような言葉を遺しています(『随想録』より)。
    
「緊縮という問題を論ずるに当っては、先ず国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。(中略)更に一層砕けて言うならば、仮にある人が待合へ行って、芸者を招(よ)んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。(中略)すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであらうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。ゆえに、個人経済から云えば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云えば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、むしろその方が望ましいわけである。ここが個人経済と、国の経済との異っておるところである。」

現代の経済学者の中には、「高橋財政は経済学的に首尾一貫した思想ではない」との見解をもつ方もいるようですが、政治家の仕事は、時局にすばやく対応し、且つ、未来を見据えて、人々の幸せを確保・維持・増進することが最優先ですから、財政政策が学問的に首尾一貫している必要はありません。なお、現代経済学における高橋財政の評価について言えば、高橋財政は、体系的な経済理論に基づいた政策ではなく、プラグマティズム(物事の真理を「理論や信念からはなく、行動の結果によって判断しよう」という考え方)の所産であると考えられています。
また、高橋財政の経済思想はMMT(Modern Monetary Theory;現代貨幣理論)と非常に高い整合性を有するといわれています。つまり、是清は、MMTに基づく財政金融政策(MMTポリティクス)を約90年も前に行なっていたということです。

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〔MMTについての参考情報〕

(MMTの基礎知識)
参考までに、MMT(現代貨幣理論)の基本を以下にまとめます(出展:〔「特別寄稿 中野剛志 消費税も量的緩和も愚の骨頂!」2019年8月号BUSINESS [MMTの大逆襲] by 中野剛志〕の記事、および、〔「MMTは、平成の誤りを検証するツールである」 参議院議員 西田昌司 氏のウェブサイト(「伝えよう、美しい精神(こころ)と自然(こくど)。日本の背骨を取り戻そう!」)〕の記事)。

(MMTにおける貨幣の意味と信用創造)
貨幣とは負債の一形式(特殊な借用証書)である。銀行が貸し出しを行うとき、銀行の預金が貸し出されているのではなく、その反対に、銀行が貸し出しを行うことによって預金が生まれている。これを「信用創造」と言う。銀行は、貸し出しにより、貸付金と言う資産を有することになるが、同時に銀行にとっては負債としての銀行預金を有することになる。銀行の負債である理由は、銀行は預金の引き出しに応じる義務という負債を負ったことである。信用創造の結果、貸付金は銀行のバランスシートの負債の欄に記入される。一方、借り手の借用証書が銀行へ渡る。したがって、銀行と借り手は、互いに借用証書を交換することになる。借り手の借用証書は銀行が保管する。貸し手である銀行の借用証書である預金(負債=信用創造された貨幣)が市中を流通する。
このように、銀行が国民に信用を与える行為(与信)が、文字通り銀行預金を生み出す。信用創造は英語ではマネークリエーション(money creation)と呼ばれている。信用創造とは、文字通りお金を作り出すことであり、市場への通貨供給そのものである。たとえば、A銀行がB企業に1千万円を貸し出す場合、A銀行は手元にある1千万円を貸すのではない。単に、B企業の銀行口座に1千万円と記帳するだけである。銀行は預金を元手に貸出しを行うのではなく、その反対に、銀行による貸出し(口座への記帳)が預金を生む。したがって、原理的には、銀行は手元資金の制約を受けずに、(返済能力のある)借り手さえいれば、いくらでも貸出しを行うことができる。
以上のことから分かることは、銀行預金が増えるためには、誰かの借入金が増えることが必要だということである。逆に借入金が減れば、銀行預金は減ることになる。これは厳然とした事実である。
上記のことは、借り手が個人や企業である場合のみならず、借り手が政府である場合、つまり、政府が国債を発行し、銀行が国債を買う場合にも当てはまる。言い換えれば、国債発行(財政赤字)が、通貨(預金)供給量を増やすことになる。
このとき重要なことは、銀行が国債購入に使うのは、民間資金ではなく、銀行が日銀に保有する日銀当座預金であるということである。日銀当座預金は日銀が発行するものである(つまり、外部から調達した資金ではない)。
政府が国債を発行して公共事業を行なう際の預金の流れは以下の通り。(1)銀行が国債を購入すると、銀行保有の日銀当座預金は、政府の日銀当座預金勘定に振り替えられる。(2)政府がこの預金を使って公共事業の発注を行なうに当たり、企業に政府小切手で支払う。(3)企業は取引銀行に小切手を持ち込み、代金の取り立てを依頼する。(4)依頼を受けた銀行は、小切手相当額を企業の口座に記帳する(この時点で、新たな預金の創造が起き、民間貯蓄が増加する)。銀行は同時に、日銀に代金の取り立てを依頼する。(5)代金取立てとして、政府保有の日銀当座預金が、銀行の日銀当座預金勘定に振り替えられる(つまり、日銀当座預金が戻ってくる)。
上記(1)~(5)のプロセスは永続し得るものであり、資金調達の問題は発生しない。要するに、政府・中央銀行(日本銀行)・市中銀行の間を預金が無限に循環するということである。なお、上記(1)~(5)の内容は、世界各国における通常の銀行業務をそのまま記述したものである。新しい理論や予想は含まれていない。
(MMTについての参考情報はここまで)
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(日露戦争の戦費調達)
是清の業績として特に注目されるのは、日本の運命をかけた日露戦争時(1904~1905)の財政危機に際しての是清の活躍です。日露戦争の戦費調達が急務となり、日銀副総裁の是清は井上馨 伯爵や桂太郎 総理大臣から「君をおいてこの任を果たせる者はいない。国家の興廃にかかわる重大任務であるので、全力をつくしてくれ」と説得され、駐英財務官に任命され、英米銀行家たちとの交渉のために、英語が上手な秘書役 深井英五を伴い現地に赴きます。
まず、横浜出帆の汽船で出立し、米国へ向かいます(明治37年(1904)2月24日)。米国の銀行家たちには、大国ロシアの極東侵略を防ごうとする小国日本に同情し、好意を寄せる声は多いのですが、外債募集に興味を示す者はいませんでした。米国では国内産業発展に外国資本の誘致を望んでいる状況であること、および、大国ロシアとの戦争で日本にまず勝ち目はないと思われたからです。
4、5日の逗留で米国での外債募集に見切りをつけた是清は、次に、起死回生を期して英国へ向かいます。懸念材料としては、日露戦争は白人国家と黄色人国家との戦いであり、また、ロシア王室と英国王室は親戚関係にあるため、英国が日本の戦費を調達するのをためらっているという噂がありました。しかし、是清は覚悟を決めます。「天は自らを扶(たす)くるものを扶くというではないか。国家の危急にのぞみ、全力をつくすばかりだ。成否は天の知るところだ。」そして、背水の陣でのぞむ是清は英国銀行家たちと渡り合い、説得交渉を粘り強く積み重ねていきます。その結果、ついに、まず、香港上海銀行ロンドン支店長 ユーウェン・キャメロン(キャメロン英元首相の高祖父)の知遇と協力を得、更に、全くの偶然から知り合ったドイツ出身の米国人銀行家のジェイコブ・ヘンリー・シフ(ヤコブ・ヘンリー・シフとも;Jacob Henry Schiff;1847.01.10~1920.09.25;ユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」(Kuhn Loeb & Co.)頭取)の知遇と協力を得ます(シフの生まれた時の名前(即ちドイツ名)は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff))。彼ら銀行家たちは各々500万ポンドの外債引受けに応じました。これを是清は「天祐なり。日本の国運は隆昌だ。」と、深井と共に喜び祝います。こうして、ついに英米の銀行家たちに莫大な日本公債発行(現在の金額にして4兆5,000億円)を引き受けさせ、財政危機を乗り切ることができたといいます。もしも是清の稀有な才知・胆力・行動力がなければ、日本は財政難から戦争を継続することができず、ロシアへの屈服を余儀なくされ、日本は今とは全く違う国(またはロシアの一部)になっていた可能性が高く、その後の世界の歴史も全く違っていたかも知れません。明治・大正・昭和の激動・国難の時代に高橋是清という人がこの日本の中枢にいてくれたことは、とてつもない幸運でした。これがまさに天祐です。
なお、是清がシフに最初に会ったあとのシフとの交渉において、是清とシフは交渉成立まで直接には会うことなく、その際に相互の連絡役をしてくれたのが是清の横浜英学修行時代の旧知 シャンドでした。シャンドはパーズ銀行ロンドン支店長に昇進しており、是清の心強い味方となってくれ、外債募集に大きく貢献してくれました。シフとの出会いと同様、横浜でのシャンドとの出会いもまことに奇しきものでした。
日露戦争の戦費調達においてはクーン・ローブ商会のジェイコブ・ヘンリー・シフの貢献はことのほか大きく、是清は晩年にこう語ります。「それらは全くシフの御蔭であった。」「日露戦争中公債の募集が成功したのはシフの功績というものだ。私の功績ではない。」(高橋是清 『随想録』よりの引用)しかし、そのようなシフを引き寄せたこと自体が、是清の大天運のなせる業ではないでしょうか。是清とシフは「会心の友」となります。この戦費調達成功の功績により、是清は1905年に貴族院議員に勅選し、1911年には日銀総裁となりました。
これほどの偉業を成した方が日本知的財産制度の創始者で初代特許庁長官であったとは、驚くばかりです。
シフは日露戦争後の1906年、日本政府に招聘され、3月28日に皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られています(出展:ウィキペディア(Wikipedia)の「ジェイコブ・ヘンリー・シフ」の項目)。

(日露戦争の歴史的意味)
アジアの黄色人種国家が白人国家との戦争に勝利するというのは、当時の国際常識を完全に打ち破るものでした。「バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた」(出展:ウィキペディア(Wikipedia)の「日露戦争」の項目)という事実に鑑みると、日本の勝利が世界史の一つの転換点であったとも言えます。
なお、日本政府の記録によると、日露戦争の戦費総額は約18億円です(1905年度の日本の政府歳入:約4億円の4.5年分)。そのうち外国からの借金が約13億円で、これを日本は(借換えを繰り返し)82年間かけて1986年(昭和61年)に返済完了しました。第二次大戦中も英国と米国への返済を継続していました。

〔ペルー銀山事件〕
是清のもう1つの有名なエピソードに、南米ペルーのカラワクラ銀山の開発失敗・破産の話があります。この話は一見すると、まるで「欲心から投機的事業で一山当てようと目論んで失敗した」かのように思われがちですが、それは誤解です。
是清が農商務省の特許局長であった時に、農商務省の尊敬する先輩 前田正名から、思いがけない海外事業への参加を依頼されます。「日本の海外発展のために、まことに有望な計画が進められている。ひとつ力を貸してくれないか。成功すれば大きな国益をもたらすことになる。ペルーのカラワクラ銀山の開発だ。」と言われます。尊敬する国士である先輩 前田正名からの話であり、また、「大きな国益をもたらす」ということで是清の心が動きます。高純度の銀鉱石(純銀に近い良鉱:紅銀鉱(ルビー・シルバー))を産出することが確認できたと聞き、是清は出資に同意します。そして、前田正名は更に、銀山開発事業(ドイツ人資産家 オスカル・へーレンと日本組合「日秘鉱業株式会社」との共同経営)の日本側代表として是清がペルーへ出向してほしい、と依頼します。是清は、特許局の建築が始まったばかりであり、商標条例・意匠条例・特許条例の実施も始まったばかりなので、特許局の仕事を投げ出してペルーへ行くなどとんでもない、と断ります。すると、前田正名は、是清をなんとしてもペルーに派遣するために、是清の頭越しに勝手に井上馨 農商務大臣に談判し、是清の「体を貰いうける」という約束を取り付けてしまいます。それを聞いた是清は、「井上農商務大臣が、自分を特許局運営に不可欠な人材と見ていない」と解釈し、失望します。前田正名が農商務大臣の承認を受けた以上は、もうペルー出向を断るわけにいきません。是清はこう覚悟を決めます。「国家の財源を富裕ならしめる事業をおこすのは、男子の本懐だ。」
こうして、是清は、明治22年(1889)10月31日付で農商務省 特許局長を退職します(35歳)。そして、日本と国交が結ばれたばかりで国情の全くわからないペルーへ向かいます。船を乗り継ぎ、53日の長旅です。しかし、現地へ行って調べてみると、なんと、カラワクラ鉱山はすでに数百年間も掘りつくした廃坑であることが判明して、衝撃を受けます。これまでの状況からして、へーレンは廃坑である事実をすでに知っていたはずでした。日本組合「日秘鉱業株式会社」とへーレンとの間の契約調印はまだなされていませんでしたが、日本側は鉱山代金12万5千円を既にへーレンによる立て替えの形で支払い済みでした。是清がへーレンに、この状況では契約の調印はできないことを告げると、へーレンは怒りだします。自分も日本側と折半で鉱山に巨額の出資をしたのだから、貧鉱だからといって今さら契約の調印をしないなど許されないとへーレンは言い、契約調印を迫ります。そして、へーレンは、とにかく契約に調印してくれれば日本側の支払った鉱山代金はいずれ返却するからといい、「鉱山代金返還保証状」なるものを見せます。しかし、是清がよく読むと、「鉱山代金返還保証状」は巧みな文章で偽装されおり、へーレンが代金返還責任を免れる特例がいくつも設けられ、なんの保証にもならないもので、へーレンは鉱山代金を得て、損失は日本側が被るようになっていました。つまりへーレンは詐術を用いても契約調印したいのでした。更に、かつて是清が大学予備門で英語を教えた旧知であり信頼していた日本人鉱山技師田島某(日本側から最初に現地調査に派遣された者)のひどい裏切りにもあいます。(田島技師は鉱山調査のためにペルーに最初に派遣されていたのですが、実際には調査せず、でたらめな報告を日本に送っていたのでした。)唯一の救いは、へーレンと日本組合「日秘鉱業株式会社」と間の契約調印をまだしていないことでした。しかし、実は、鉱山技師田島が日本側発起人代表として、自己判断のみで日本側に無断でへーレンと交わしてあったへーレンとの共同経営の初期契約が別にあり、それが後日の紛争の種となりかねないことを是清は懸念します。そこで是清は知恵を絞って、その初期契約を無効化し且つ新たな損害を生じない新契約をへーレンと結ぶことに成功し、禍根を断ちます。(新契約の内容は、日本側はへーレンの権利を6万ポンドで買い取る意思があると見せかけ、是清の帰国から6カ月以内に上記買取りが実行されない場合には、日本側が投入資金と鉱山の権利を失うが、但し、この新契約の調印と同時に、鉱山技師田島が日本側発起人代表として調印した初期契約はその効力を失う、というものです。)これで、是清が帰国すれば、更なる損害の発生を防ぐことができます。是清は、へーレンに真意をさとられないように細心の注意をはらいつつ、失意のうちに「孤影悄然」(『随想録』より)として帰国して、他の出資者と協議のうえ会社を解散します。へーレンには、株主の賛成が得られず事業廃止となったと電報で通知します。この結果、日本側は投入資金と鉱山の権利を全て失いますが、更なる損害発生の可能性を封じました(投資用語でいう「損切り」ができました)。会社解散により、是清は持株未払込金1万6千円の債務を負担しなければならず、大塚窪町八番地の自宅1527坪を含めほぼ全財産を失います(明治23年(1890)6月)。

〔破産からの困窮生活〕
是清の一家4人は、売り払った自宅の裏手の借家に引っ越します。ペルー銀山事件について、新聞からはいろいろと書きたてられ、世間からは根拠のない誹謗中傷(「高橋はヤマ師だ」「高橋がペルーのリマで放蕩をして10万円以上の損害を招いたらしい」など)を受け続けます。当時日本は鉱山ブームであり、是清は帰国後に再起を期して、知人と数人で日本での鉱山開発事業を試みたこともありました。場所は群馬県天沼鉱山と同県利根郡戸倉の山中です。しかし、いずれも失敗に終わります。是清一家の生活は困窮します。楽天家の是清ですが、このときは、家族を苦しませることで、人生最大の苦痛を味わいます。この時の苦しみを是清は『随想録』でこう述べています。「自分一人で受ける苦痛は、どんなことでも辛抱しやすい。けれども、一家を持って相当に暮しておったものが、突然、生計にも困るようになって、家族のものに着る物も着せられず、食う物も与えられんとあっては、尋常一様の苦しみでないことは勿論だ。」みかねた是清の友人たちは是清に知事や郡長などの官職をすすめてくれますが、是清は辞退します。その理由は、「いま私は衣食の費用をやりくりしなければならない身上だ。このような状態で官職につけば、上官の間違った命令をも聞くことを余儀なくされるだろう。」是清には地位や名誉への執着というものがないので、いずれ田舎に引っ込んで百姓仕事をするつもりでした。

〔日銀総裁 川田小一郎との出会い〕
しかし、破産から2年が過ぎようとする明治25年(1892)4月に転機が訪れます。是清をペルー銀山事件に巻き込んだ責任者である前田正名の紹介で、日本銀行総裁 川田小一郎(1836.10.04.~1896.11.07.)と面会します。牛込新小川町の川田邸を訪ねると、川田日銀総裁は笑顔で迎えてくれました。川田日銀総裁は、かねてから是清のことを西郷従道(つぐみち)、品川弥二郎、松方正義、前田正名らからきいており、ペルー銀山事件のあらましも承知していました。そのうえで是清から直接話を聞こうとなって、面会を求めたのです。是清は2時間ほどかけてペルー事件の顛末を詳しく説明します。途中で公用の来客あっても面会を断って、川田日銀総裁は是清の説明に真剣に耳を傾け、全てを諒解します。川田日銀総裁は、「君があとに悶着の種を残さないようにしてきた手際は、私がその場にいたとしても、それ以上のことはできまい。君は実によくやった。」と高く評価します。更に川田日銀総裁は、是清一家の困窮した様子を聞くと、「君はまだ40歳前の若さではないか」と、是清に実業界へ転身しての再起をすすめ、三陽鉄道の社長の座を提示します。しかし是清は、鉄道に何の知識もない自分が社長となり万が一にも不手際をして推薦者の川田日銀総裁に迷惑をかけてはいけないと考え、「実業界に転ずるには、丁稚小僧の役目から始めさせてほしい」として即座に辞退します。これを聞いて感心したような、あきれたような川田日銀総裁が、「ならば、君、私が玄関番になれと言ったら、それでも引き受けるか」と言えば、「喜んで、やらせていただきます」と答えます(『高橋是清自伝(下)』より)。川田日銀総裁は承知して、仕事の斡旋を約束します。

〔銀行・金融業界への転身〕
その後、5月半頃になって是清は川田日銀総裁から牛込の川田邸に呼ばれ、日本銀行の新築工事の建築事務所主任の職をすすめられ、これを受けます(明治25年;1892;38歳)。建築事務所で上司となる技術部監督が辰野金吾(1854.08.22.~1919.03.25.)で、彼は20年ほど前、唐津藩の英学校(耐恒寮)での教師時代(1871年8月~1872年9月)の教え子でしたが、教え子の部下になることを是清は全く気にしません。(建築事務所の総監督は、安田善次郎(1838.11.25.~1921.09.28.; 安田財閥創始者で、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコの曽祖父)でした。)こうして是清は川田日銀総裁によってどん底から救われます。この時のことを、晩年の是清は経済雑誌のインタビュー記事(テーマ:「僕の感心した人物」)において、こう述べています。「川田さんはわしの失敗の事情をつぶさに聴かれた後、面倒を見てやろうとおっしゃってくださった。いわば、川田さんは、わしの命の恩人とも言うべき人だ」(出展:「ダイヤモンド」誌 昭和5年(1930)12月21日号)。
6月1日付で建築事務所主任に任ずる辞令を受け取ります。是清は日本銀行の建築事務所主任として直ぐに頭角を現し、持ち前の深い洞察力・直感力・緻密な思考力・行動力を発揮するうち、しだいに大きな権限を与えられるようになり、職場の組織運営上の問題点を全て洗い出し、大幅な組織改革を行うなどして建築工事を迅速に進捗させます。それだけでなく、就職と同時に、銀行業務と内外経済についての猛勉強を始めます。是清は建築事務所主任の仕事を通じで証明した能力を買われて、就職からわずか3カ月後に日本銀行正社員に採用されます。ここから是清の銀行・金融業界での仕事が始まります。仕事の中で国際金融を学びながら多くの活躍をし、それらが評価されて、日本銀行副総裁に任ぜられます(明治32年;1899;45歳)。日本銀行副総裁として縦横に手腕を発揮し、その極まりとして、日露戦争戦費調達の外債募集のために英米に派遣され、奇跡的な募集成功をおさめます(明治37年;1904;50歳)。
こうしてみると、是清が特許局長を退職してペルーの銀山経営に乗り出し、そして直ぐに失敗し、やがて川田日銀総裁に救われて銀行・金融業界に転身したからこそ、日露戦争の戦費調達がかない日本の危難が救われたわけですので、全てが本当に不思議な機縁です。

〔武士のようなリベラリスト〕
是清は少年時代に米国で西洋文化を体験したので、明治維新の時には恩人の森有礼と同じく廃刀論者であり、また、政治家としては、当時日本政界の最上層で天皇を補佐する超憲法的な権限を持っていた明治の元老たち(伊藤博文、山形有朋、井上馨、黒田清隆、西郷従道、大山巌、松方正義、桂太郎、西園寺公望(さいおんじきんもち)ら9人の最重臣)による支配からの脱却と真のデモクラシーを目指す日本最初のリベラリストの一人と理解できます。しかし、一方、彼の豪胆・愚直、義の心で天命に従って身を処す精神には、どこか、「最後の武士」といったイメージが重なります。是清のそんな精神は、幼少期に祖母喜代子から受けた武士としての教育の賜物ではないでしょうか。是清は米国留学の直前に、祖母喜代子から切腹の作法も教わっていました。
ただ、とても残念なのは、是清のそんな「豪胆・愚直、義の心で天命に従って身を処す精神」が、二・二六事件で暗殺される運命につながってしまったことです。前記のように「高橋財政金融政策」により日本が世界恐慌(昭和恐慌)からいち早く脱出したあと、1935年(昭和10年)頃には日本経済は安定軌道に乗っていると考えられるようになりました。国債の直接引受けで得た財源で行なっていた財政政策(景気対策)について、是清は「悪性インフレーションの弊害」が出ることを懸念して、1936年(昭和11年)からは緊縮財政を行なうことを予定し、当然軍事支出(特に膨張していた)も引き締めることとなります。軍部は軍事支出増額を強く要求しますが、是清は一切ひるむことなく、軍部の増額要求を毅然とはねつけ、敢然と公然と軍部批判を行ないました。その結果、過激な思想(北一輝(きたいっき)などが提唱していた「日本改造法案大綱」に体現される「国家社会主義」)に感化されていた青年将校らが二・二六事件を起こし、是清は命を落とします(1936年(昭和11年)2月26日未明)。
国家の職務に忠実であろうとして命を失った是清は、こんな言葉も残しています(高橋是清 『随想録』よりの引用)。

「国家というものは、自分と離れて別にあるものではない。国家に対して、自己というもののあるべき筈はない。自己と国家とは一つものである。」

「その職務は運命によって授かったものと観念し、天命に安んじて精神をこめ、誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ。いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力することで、はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである。」

〔スティーブ・ジョブズ氏の言葉〕
唐突ですが、不思議な機縁に彩られる是清の生涯を眺めると、2005年にスタンフォード大学の卒業式でスティーブ・ジョブズ氏(Steve Jobs)(1955.02.24.~2011.10.05.;56歳没;アップル社 元会長)が講演した際の下記の一節が思い出されます。

"Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college.
But it was very, very clear looking backward 10 years later.
Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backward. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ---- your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life."
「もちろん、大学時代の私には点と点をつなげて未来を描くことはできなかった。
でも10年後に過去を振り返ると、点と点のつながりがとてもはっきりと見えていた。
やはり、点と点をつなげて未来を描くことはできない。過去を振り返り、点と点のつながりを後から知ることしかできない。だから、点と点が未来でつながることを信じるしかないのだ。とにかく何かを信じることだ ----- 自分自身、運命、人生、宿縁、なんでもいい。私はこのやり方で失敗したことはないし、私の人生を大きく変えてくれたのだ。」

〔是清の赤坂邸宅〕
是清の邸宅は赤坂御所と対面する青山通り沿いにあって敷地面積は約2,000坪でした(明治35年(1902)に新築)。高橋是清邸の跡地の大部分は現在、高橋是清翁記念公園(たかはしこれきよおうきねんこうえん)です(昭和16年(1941)に開園;東京都港区赤坂七丁目3番39号;敷地面積約1,600坪(5,320.62平方メートル))。港区ウェブサイトによる公園紹介文は以下:「青山通りをはさんで赤坂御所と向かい合うこの公園は、池のある、日本庭園の趣きをもった公園です。カエデ、モッコク、ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩り、中央の池泉のまわりには石橋や石人像、石灯篭が配置され、荘厳な雰囲気さえ漂います。」AKASAKA PARKSウェブサイトによる公園紹介文は以下:「青山通り沿いの入り口には、すべり台、砂場のある遊具スペースがあり、その奥は、木々に囲まれた庭園スペースとなっています。池、石橋、石灯籠のほか、高橋是清翁像や石碑などが配置され、日本庭園の趣があり、都心にいながら自然のなかの心地よい静寂と歴史、自然を感じることができます。」現在この公園に隣接しているカナダ大使館の土地も高橋邸の一部でした。
邸宅は二・二六事件後の昭和13年(1938)東京市に寄贈され、1941年に高橋是清が眠る多摩霊園に移築され仁翁閣(じんおうかく)と名付けられ、有料休憩所として親しまれました。太平洋戦争前に多磨霊園に移築されていたため東京大空襲などの戦災を免れ、さらに平成5年(1993)に都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築されて公開されています。ジブリアニメファンの間では、江戸東京たてもの園の高橋是清邸は「千と千尋の神隠し」のなかで傷を負って逃げ帰る白龍(ハク)が千尋のいる窓へ飛び込んでくるシーンの背景モデルと言われています。

〔結び〕
未来を信じて人事を尽くし全力で国家の職務に生きた高橋是清のあり方は、昔も今も、問題解決をまかされた者に求められる最も重要な心得ではないでしょうか。

困難な状況に直面した際には、「こんな時、高橋是清ならどうするだろうか」、と幾度も自分に問いかけてみたいものです。

拙稿をお読みいただき、ありがとうございました。

参考文献:
上塚司編、高橋是清 『随想録』 中公文庫 (2018)
上塚司編、高橋是清 『高橋是清自伝 上・下』 中公文庫(2018)
津本陽 『人生を逆転させた男・高橋是清』 PHP文芸文庫 (2017)
幸田真音 『天祐なり 高橋是清・百年前の日本国債 上・下』 角川文庫 (2015)
日本特許庁ウェブサイト 特許行政年次報告書2018年度版 「冒頭特集 - 明治初期からの産業財産権制度の歩み」
日本弁理士会ウェブサイトの記事「弁理士の歴史」
守誠 『特許の文明史』 新潮選書 (1994)
今泉 飛鳥「特許制度の導入プロセスとその社会・経済的意義 - 人力車発明問題再考」、『社会経済史学』83-2 (2017年8月)
E・V・ヘイン著,伊佐喬三訳 『天才の炎』 東京図書 (1977)
川北武長 「三度目の敗戦」,パテント,Vol. 70,No.9,pp.99-104 (2017)
小林  聡 「江戸時代における発明・創作と権利保護」、パテント,Vol. 61, No.5, pp.48-55 (2008)
上念司 『経済で読み解く日本史 〈明治時代〉』 飛鳥新社 (2019)
上念司 『経済で読み解く日本史 〈大正・昭和時代〉』 飛鳥新社 (2019)
田中 彰 『岩倉使節団「米欧回覧実記」』 岩波現代文庫 (2002)
『ダイヤモンド』誌 昭和5年(1930)12月21日号
大輪董郎 『財界の巨人』 昭文堂 (明治44年;1911)
ウィキペディア(Wikipedia)の「日露戦争」の項目
ウィキペディア(Wikipedia)の「ジェイコブ・ヘンリー・シフ」の項目
ウィキペディア(Wikipedia)の「万延元年遣米使節」の項目
ウィキペディア(Wikipedia)の「岩倉使節団」の項目
沼田次郎/松沢弘陽 『日本思想大系第66巻 西洋見聞集』 岩波書店(1974)
IPWatchdogサイトの記事: Smithsonian Exhibition on Innovation in 19th-Century America, March 6, 2011
安曇野市教育委員会ウェブサイトの記事:「臥雲 辰致(がうん たっち)ガラ紡(臥雲式紡績機)の発明により、日本の産業革命に貢献」
中野 剛志 『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室 【基礎知識編】』 ベストセラーズ (2019)
ウェブサイトの記事:「特別寄稿 中野剛志 消費税も量的緩和も愚の骨頂!」、2019年8月号BUSINESS [MMTの大逆襲] (https://facta.co.jp/article/201908017.html
ウェブサイトの記事:「MMTは、平成の誤りを検証するツールである」、参議院議員 西田昌司 氏のウェブサイト(「伝えよう、美しい精神(こころ)と自然(こくど)。日本の背骨を取り戻そう!」) (https://www.showyou.jp/free/?id=3851

(2022-07-12)


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