尾藩勤皇伝流
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尾藩勤皇伝流 (小説選集)
書誌情報:著者海音寺潮五郎 著出版者博文館出版年月日昭和18
https://dl.ndl.go.jp/pid/1108727/1/63
- 『尾藩勤皇伝流』(博文館 1943年)
- のち「宗春行状記」旺文社文庫、時代小説文庫、「吉宗と宗春」文春文庫
解説より
海音寺潮五郎の「宗春行状記」は、徳川八代将軍吉宗との対立、不和の関係を通して、御三家尾張徳川家の風流大名、宗春の豪胆奔放な半生を描出した長編小説で、昭和十四年六月から翌年八月にかけて、「風流大名」のタイトルで「現代」に連載された。
経済談義
「坐れ! 顔を上げろ!」 武士はねじつけるようにして助八を宗春の前に坐らせ、もとどりを掴んでぐいと顔を上げさせた。 助八は、厭でも宗春と真正面から顔をつき合わせなければならない姿勢になった。 眼を放さず、宗春は助八の顔を見つめていた。きびしく唇を結んで、突き刺すように鋭い眼である。 のみならず、刀の柄を抑えている手が、微かにふるえているのが、全身に漲りわたる殺気を必死になってこらえているもののように見なされた。 (どうするつもりか、斬るつもりか) 頭のしびれるような恐怖のうちに、助八は考えた。 息づまるような幾瞬間かが過ぎた。 突然だった。 宗春は微笑った。その微笑は、親しげで打ちとけて、気楽極まるものだった。しかし、助八は、そのために一層恐ろしくなった。不覚なふるえが悪寒のように身うちを走って、つめたい汗が額ににじむのを感じた。 愛想よく、宗春は声をかけた。 「町人」 「……」 「御返答申し上げぬか!」 武士はどなって、つかんでいた髷をぐいッと引っ張った。 「手荒なことをするな」 宗春は武士をなだめて、更に明るく微笑して、 「その方、当屋敷を見物したいとの」 「……お助けくださりませ!」 半分の真実の恐怖と半分の芝居がかりで、助八は、低い、掠れた声をしぼった。 「ははは……、そう恐がるな。人間というものは妙なもので、恐がられると、あわれになることもあるが、また反対に、ついふらふらと斬ってしまいたくなることもあるものだ」 笑い笑い言って、ぬっと立ち上がったかと思うと、 「エイッー」 勁烈な矢声と共に、刀をぬいてふり下ろした。 ヒューッと風を切って、刀身は白虹の砕けるような光と共に助八の鼻先を掠めた。 助八は眼をつぶって悲鳴を上げた。 「町人」 つめたい光をたたえた抜身を片手に提げながら、宗春は呼んだ。 「柳営では、当上様の代になって、従来の隠密共の外に、御庭番が隠密の御用を承るようになっているとか聞く。隠密なる者は、各家ともに、見つけ出せば斬って捨てることになっており、また、斬られたとわかっても、お公儀では文句を言わぬしきたりになっている。当家でもそのしきたりに外れるわけではない故、もし、もしだぞ、もしも、そちが隠密であれば、斬って捨てねばならぬ」 今はもう、宗春が自分の素性を知っていることは疑いなかった。助八は、大きな、つめたい、かたい手で心臓をじりじりと握りしめられるような気がした。 「ははは……、顔色が変わったな。なぜそう恐がるのだ。わしはそちが隠密だと断定はせぬぞ。もしもであればと言っているのだ。ははは……、恐らく、そちは隠密などと申す者ではあるまい。生れながらの町人であろう。それ故、斬りもせねば、殺しもせぬ。屋敷内が見たいということなれば、残るところなく見せてやるつもりでいるのだ」 宗春は、刀を鞘に納めて、侍臣に渡した。 「来い。わしが案内してやろう」 先に立って、歩き出すのである。 「……もう結構で……お助けくださりませ。てまえはもう……」 「遠慮をするなと申すのだ。ひとりで歩けぬようなら、肩をかしてやれ」 武士にそう命ずるのである。 凡そ二刻ほどもかかって、宗春は邸内を見せて歩いた 「ここが執務所、見い、家老、物頭より、ずっと下の横目、書役共に至るまで、こうして一室に机を並べて執務している。皆楽しげにやっているであろう。面白いように仕事がはかどっているぞ……長屋も見せてつかわすかな……それ、ここでは三味線をひいている。ほほう『よいやな節』だぞ……これは名古屋で今はやっている『よいやな節』と申す唄だ。いい唄であろう」 楽しげに耳を傾けて、三味に合わせて微吟するのである。 松になりたや 大池の松に 二葉栄ゆく 千代そわむ よいや、 よいや、 よいやなァ、 「……それ、長屋では箏、尺八もやっているな。非番で、夫婦合奏を楽しんでいるのだな。夫婦のなかのむつまじいのはわきから見ても気持のいいものだの」 男子禁制の奥にこそ案内しなかったが、表御殿、中奥、庭園、侍長屋――一通りずっと見せた。 以前の庭に帰って来た。 「これで、まず一通り見て貰ったことになるが、どうであった。面白かったかな」 「……恐れ……恐れ入りましてござりまする」
助八は恐縮しきっていた。蛇に睨まれた蛙の気持がこうもあろうか、底知れぬ深淵に臨んでいるような薄気味悪さに、五体が竦んで、馬鹿になったように頭が働かなくなっていた。 邸内を偵察するどころの話ではない。一時も早くこの場を立ち去りたいとばかり考えていた。
だが、宗春は容易には助八を離そうとはしなかった。落ちつきはらった調子で、のんびりと言うのである。
「わし自身はあたり前のことをやっているに過ぎぬと思うているが、世間の目には随分と変わって見えるらしく、いろいろと評判を立てている由、わしは、物好きや、一時のきまぐれでこういうことをしているのではない。わしはの……」
宗春がここまで話した時、若い一人の侍が出て来た。 (あ、来た!) 一目見た時、助八にはそれが誰であるかすぐわかった。
誰でもない。星野織部である。助八が星野を知ったのは、吉宗の日光社参の時が、はじめてであった。その時、いつも側去らず宗春が召し連れていたので、よほどの寵臣と思って、くわしく探索して織部については随分深い知識を持っているのである。
宗春の襲封と共に、織部は三百石、側用人に任ぜられていた。 織部の姿を見ると、宗春は笑って説明した。
「これは通りかかりの町人だが、しきりに当屋敷を見たがっているようなので、呼び入れて、今とっくりと見せたところじゃ。隠密かも知れぬ故、斬れと申す者もあるが、わしの見るところでは隠密でない。こんなおだやかな顔をした隠密がおるものではないからのう」
「御意にござります。隠密などつとめる者は目から鼻に抜けるほどに小気の利いた者でござりまする由。されば、かかる馬鹿面の者などのつとまることではござりませぬ」
針のようにとげのある眼で見ながら、皮肉に笑って、織部は答えるのである。
「そうそう、なるほど随分と間抜けた顔をしているな。ははははは――さて、どこまで話したかな。うむ、そうそう、一時のきまぐれや物好きによってかようなことをいたしているのではないというところだったの。町人、わしは、実を言うと、今の世の中の政治のとりかたに深い疑いがあるのだ。当代になって、まず上様がなされたことは、倹約令の発布だ。上は将軍大名より、下は百姓町人に至るまで、倹約せねばならぬ、曰く、衣類一枚の価何十匁以上のものは着ることならぬ、曰く、毎食の膳部は一汁に一菜といたせ、曰く、酒は何献を越すべからず、曰く、何々すべからず、曰く、何々すべからず、曰く、何々すべからずと、道学先生が内弟子を躾けるようなやり方で天下の政治をしようとしていなさる。野放図もなき贅沢はもとよりほむべきことではない。が、倹約だけで世並みがよくなるとは、一軒一家の生活かたと、天下の政治とを混同している考えではないかと、わしには思われるのだ。勿論、天下の政治においても倹約を行わねばならぬ時もある。国を挙げて外国と戦争している時とか、甚だしき天災地変があったとか、凶作であるとかいう時にはこれ以外に切り抜ける策はない。が、それは医家の所謂、応病与薬であって、今日の如く天下治安、海内無事の場合には適せぬとわしは思う。金は天下の廻り持ちという。金銀が滑らかに天下を廻ってこそ、人の生活は豊かになるのだ。倹約、倹約で、人々が握った金銀を一切手から離さないで握りづめにしていては、世の中どうなると思う。金銀が金銀の役目をせぬばかりでなく、町人も、百姓も、職人も、その仕事はとんと上がったりになってしまうではないか。天下中の者が食べるものを倹約し、飲むものを倹約するようになれば、食物を作り出す百姓が困り、酒を造る酒屋が困る。天下の人が残らず着るものを倹約するようになれば、蚕を飼い、麻をつむぐ百姓が困り、織屋が痛む。運送の仕事にあたる馬子船乗りも困れば、売買いの間に利鞘をかせぐことによって立っている商人も困る。武士だけが困らぬもののように見える。武士は自ら米を作ったり、織物を織り出したり、器物を造り出したりはせぬ。武士は主より禄を貰って使うだけのもの故、倹約すれば倹約するだけ余分に金を残すことが出来て、如何にも結構なように、一応は考えられる。が、これとても、もう一歩踏みこんで考えれば、そうでないことがわかる。なぜなら武士の生活の資になるものはどこから出て来るか、百姓の租税、商人の運上から出て来るのだ。されば、百姓町人は大本、武士はその末じゃ。本が衰え枯れて末がどうしてよかろう道理があろう」
恐怖は今は去って、探索に対する熱意がしらずしらずのうちに、助八の顔を熱心にしていた。
宗春は、そしらぬ顔でつづける。
「いい例がある。倹約令を出されて以来、幕府には随分と金が出来たそうな。前代様までは、お公儀のお勝手は火の車であったのだから、先ず、大したお手柄と申さねばならぬが、どこまでもその手で押して行こうとなさるところに御無理がある。何とやら言う下世話があるの。それ、馬鹿の一つ覚え、ははは……。どこにその御無理があるか。元禄の時代にお公儀は財政の窮乏を救うために金銀の改鋳をして、慶長の古制より四分方品位を悪くなされた。つまり、六両の古金銀を以て十両の金銀をつくりなされたわけじゃ。それによって、とまれかくまれ、お公儀一時の急は救われたが、際限もなく金銀がふえたために、物の値段は天井知らずに騰って、人民の生活は苦しくなった。人民の生活が苦しくなったため、それが響いてまたお公儀のお勝手も苦しくなった。その急を救うために、金銀品位を更に落して改鋳をやらねばならなかった。されば、常憲院様(綢吉)の御晩年の世の中は、どうにもこうにもならぬ御治世となった。その時、出て来たのが、金銀復活の説じゃ、金銀を慶長の古制に返して数を少なくすれば、物の値段が下がって、この混乱した世間も落ちつくであろうとの説を立てる者共が出て来た。六代文昭院様(家宣)の時に用いられた新井白石などがそれじゃ。文昭院様はその説を容れさせられて、金銀復活のお志が在したが、急にはその運びになりかねる事情があって、わずかに準備に着手なされたのみにて御薨去遊ばされた。次は七代様(家継)だが、七代様は御幼少ではあったし、御治世もお短く在した故、格別のこともなかった。その次が、当上様じゃ。上様は、倹約令を天下に敷いて、天下の人心を引きしめ、また、それによってお公儀の財政を豊かにして置いて、金銀復活の事業にとりかかり遊ばされた。この間の段取りはまことにお見事なものであった。誰がやっても、あれほど見事にはやれまい。が、その後が悪い。金銀の復活も出来、幕府の財政のゆとりも出来た以上は、国民一同が生々と元気よく働いて世の中を豊かにするような方法を講じなければならぬのに、いつまでもはじめの手をつづけて行こうとなされている。その結果は、見ているがよい。士農工商、皆元気がなくなって苦しみ喘ぎ、また、お公儀のお勝手も今を絶頂として、だんだん弱りに弱って、あげくの果てはまた元禄のように、それどころか、元禄以上に質を下げた金銀をつくらねばやりきれぬようになるは必定故、仏法では世に常住不変のものはないと言うが、天下の政治は殊にそうだ。天下は生物だ。昨日の天下と今日の天下、去年の天下と今年の天下は違う。違うが故に、昨日の策は今日に適せず、去年の策は今年に適しない。昨日の是は今日の非、去年の非は今年の是だ。それ故、天下の政を為す者は常住不断に天下の変を見て、その変に応ずる策を以て臨まねばならぬのだ。わかりやすい例を取って言おう。生れたての赤んぼには母親の乳が一番よい。飯であるとか、魚であるとかいうものは食わしてはならぬ。が、一年たち、二年たち、三年たって、なお、乳ばかりあてがっておいたらどうだ。到底、まともな生育を遂げることは出来まい。今の幕府の政治のとりざまが、わしにはその愚かな母親の育児に似たところがあるように思われてならないのだ。もし、わしが天下の政を執るならば、そうした馬鹿の一つ覚えに類したことはせぬ。必ずや、機を見、変を察して、時処位に最も適合した策をとる。が、悲しいかな、わしは天下の政には縁なきものだ。が、わしの自由になる尾張一国だけは、かかる愚かなる政治の下に立たしたくない。最もよいと信ずるわしの政治を行いたい。新しい法度を立てたのは、その第一歩だ。わしのこのやりかたが成功するか、公儀のやりかたが成功するか、その心あって見ている人には相当に面白い観物であろうよ。はッははは……」
我を忘れて熱心な面持で聞いていた助八は、突然に響いた鋭い宗春の哄笑に、ぎくりとして気がつくと、宗春は声だけはいとも愉快げに響かせながら、眼は抉ぐるように鋭い光をたたえて助八の眼を見つめているのであった。
助八は顔を伏せた。 ゆっくりと、その眼を、傍らの星野に転じて、互いに微笑し合って、それから、宗春はまた言った。 「町人、見るところ、その方は主人持ちのように見える。何商売か知らぬが、相当な家につかえているのであろう。相当な家の主人ならば、わしが今申したことについて、是非の考えもつくであろう。帰ったならば、逐一に話してみい。主人がなんと申すか――連れて行って帰してやれ、手荒なことをするでないぞ」 そして宗春は床几を立って歩き去った。 助六は入った門まで連れて行かれて、ポンと突き出された。 「どこへなりと立ち去れ」 よろめく足をふみしめて、しばらくの間、助六は、茫然としていた。 いつの間にか陽が傾き翳って、うすら寒い風が出ている。 「覚えていろ!」 口の中で言って、乱れた着物と掻き合わせたが、ふと、全身びっしょりと冷たい汗をかいているのに気づくと、今更のようによみがえった恐怖に、ぶるっと身震いをした。
解説 江戸時代三百年の間に登場した多数の大名の中で、御三家筆頭、尾張徳川家七代の宗春ほど個性豊かで魅力的だった大名はいない。宗春は風流好みの大名であった。 江戸時代中期の享保十五年(一七三〇)、尾張藩六十二万石の藩主となった宗春は、名古屋では国禁であった遊廓を西小路に開設し、遊興路線を打ち出したので、宗春の治世三年目にあたる享保十八年ごろまでには、上方や伊勢から多数の遊女が尾張に流れ込み、いわゆる尾張三廓とよばれた西小路、富士見、葛町の賑いは相当なものであった。 その年の春、江戸からお国入りする際に、宗春は名古屋城を目前にしているにもかかわらず、突然、大名行列の駕籠から降りて新興遊廓地の葛町に直行し、供廻りのひとびとを驚かせた。葛町から西小路遊廓を廻って名古屋城に着いたのは七つ半(午前五時)を過ぎていた。朝帰りでお国入りした大名は、江戸時代三百年を通じて、宗春以外にはいなかったにちがいない。若いころから吉原遊廓になじんでいた宗春は、国元の遊廓の繁盛を知り、お国入りに際して、尾張三廓に足を向けずにはいられなかったのである。 宗春による解禁政策は、遊廓の設置のほかに、橘町をはじめとして、名古屋町内の各所に常設の劇場を置くことを許可し、藩邸の長屋でも遊芸、音曲、鳴り物の制限を一切はずすという自由放任路線の実施となってあらわれた。芝居はそれまで、こも張り、よしず囲いの小屋がけで、寺院の境内で春秋の彼岸などにおこなわれたにすぎないが、享保十七年以降、芝居解禁によって、京、大坂から歌舞伎役者たちの一座が名古屋を訪れ、芝居の流行をもたらした。名古屋は歌舞伎の始祖といわれる出雲阿国、名古屋山三郎など、芝居とのかかわりが深い土地であると同時に、芸どころとよばれる土地柄になったのは、宗春の芝居、遊芸の解禁政策による影響だ。享保十八年の秋、橘町で市山助五郎、沢村新蔵ら一流役者による芝居興行がおこなわれた際の逸話がある。 演題は「傾城夫乞桜(けいせいつまこいざくら)」。主役の若殿を演じたのは助五郎である。城下に芝居興行を許可し、遊廓を設置した若殿が、白い牛に乗り、唐人笠をかぶって、おしのびで遊廓をのぞき、長ぎせるを使うというストーリーは、宗春をモデルにした芝居であることは誰が見てもわかった。実在の殿さまをモデルにした芝居を、おひざもとの城下で、堂々と上演する助五郎に対して、おとがめを受けるから、上演を中止するように忠告する者がいたが、勇気のある助五郎は、平気でその芝居を続けた。ある囗、芝居の途中で、助五郎は宗春のお成りを知らされ、さすがに冷汗をかいた。頭巾で顔を隠した宗春が、おしのびで桟敷の一角から芝居を見ていたのである。舞台がはねてから助五郎を召した宗春は、おしかりを覚悟した助五郎に。 「大儀であった。おもしろかったぞ」という一言を残して、笑顔で去った。まさに、風流大名の面目躍如たるエピソードである。 宗春が芝居を解禁する以前は、家中の侍が、寺院の境内でおこなわれている、こも張り、よしず囲いの小屋がけ芝居を観ることは禁止されていた。最近、ベストセラーとして話題を呼んだ、神坂次郎の「元禄御畳奉行の日記」(中公新書)によると、酒、女、芝居好きであった尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門は、若いころから、芝居小屋に密かに潜入して芝居見物をしていたという。侍やその家族がおおっぴらに芝居を観ることは許されていなかったからだ。ある時などは、魚釣りに行くふりをして釣竿をかついで家を出たのだが、見事に失敗。両親に見破られ、目から火がでるほど説教されたそうだ。だが、芝居狂いの彼は、御畳奉行になった後も、芝居小屋通いを止めることができず、編笠をかぶって死ぬ前年まで、橘町の芝居小屋潜入を続けている。 神坂次郎の「元禄御畳奉行の日記」は、そのサブタイトルが、「尾張藩士の見た浮世」とあるように、尾張藩の下級武士の家に生まれた文左衛門が、元禄四年、十八歳から書き始め、享保二年、四十四歳までに書き綴った日記「鸚鵡籠中記」(八千八百六十三日間の日記)を通して、元禄から享保初年にいたる尾張の武士、町人の実態と世相を浮き彫りにした本である。「鸚鵡籠中記」を苦心して解読し、まとめた神坂次郎は、ユーモア時代小説作家だけに、ユーモアとペーソスをまじえた文左衛門の出世、サラリーマンぶりを見事に描き出し、現代のサラリーマン諸氏の共感を得た結果、この種の本としては、空前のベストセラーとなった。記録マニア、メモ魔であった文左衛門は、橘町の芝居小屋の入場料金や、観劇した芝居の劇評などを丹念に書き続け、芝居にはうるさい人物だけに、その劇評はきわめて辛辣である。文左衛門が就任した御畳奉行という役職は、畳の新造、取替、修繕、調査といった御用を管理するもので、尾張藩では三人の武士が担当した。管理職のいわば、用度課長に、二十七歳で抜擢された文左衛門は、酒、女、芝居好きとはいえ、自分のサラリーだけでは遊べないので、ときには、わざと御用を拵えて上方に出張し、京、大坂で芝居、遊廓通いをして羽目をはずして遊んだ。料亭、芝居、遊廓の費用は、京、大坂の御用商人、畳表卸商たちが負担している。文左衛門は元禄武士の社用族として人生の快楽を極めつくしたのである。 文左衛門の日記を読んでいて痛快なのは、尾張藩主やその生母の行状を、歯に衣着せぬ筆法で書きとめていることだ。その当時の四代藩主の吉通は、資性英明、名君とうわさされたが、側近官僚たちの阿諛のまま酒色に耽溺し、資性英明どころか、「水戸に君あり、紀伊に臣あり、尾張に大根あり」と、酷評され、狂乱酔死した漁色家だと記されている。吉通の生母の本寿院は、三代藩主綱誠の側室であったが、綱誠の死後、女盛りの身をもてあまして、淫乱の限りを尽したという。文左衛門の日記には、「本寿院様貪婬絶倫。或は寺へ行きて御宿し、又は昼夜あやつり狂言にて諸町人役者等入込み、其の内御気入れば誰によらず召して婬戯す」(元禄十五年十月二日)と、本寿院の荒淫ぶりが記されている。文左衛門が十八歳で書き始め、二十六年八ヵ月の間、書き続けた「鸚鵡籠中記」は、享保二年十二月二十九日の日記で終っており、文左衛門はその翌年、四十五歳で死去した。風流大名、宗春が尾張徳川家七代を継ぎ、藩主に就任したのは享保十五年である。享保三年に亡くなった文左衛門が、身体壮健で十数年長生きしていたならば、天下の話題を集めた宗春の治政下の尾張名古屋の様子を、詳細に書き残していたにちがいない。文左衛門は宗春の朝帰りのお国入り、「傾城夫乞桜」をめぐる逸話などを、「鸚鵡籠中記」にどのように記したのであろうか、想像するだけでも興味津津だが、そういった逸話を書き残すことができないで、亡くなってしまったことが惜しまれる。 宗春は元禄九年(一六九六)、三代藩主綱誠の三十四番目の子として生まれた。綱誠には多くの側室があったので、子供の数は三十九人いた。三十九人の子の大部分は生後二、三年で死んだため、幕府の正史「徳川実紀」に第七子と記されている。宗春は男子に限っても綱誠の二十番目の子供で、しかも、庶流の出だったので、藩主となる可能性はきわめて少なく、十八歳で江戸に下り、青年時代の大部分を無位無官のまま部屋住みとして過ごした。四代藩主吉通の死後、その嫡子の五郎太は五代の世継ぎとされていたが、わずか三歳で夭折し、尾張徳川家の正統は絶えたのち、吉通の庶弟、継友が六代目を継ぎ、やがて、幸運にも宗春が七代目藩主に就任することになる。ちなみに、徳川将軍家の跡目をめぐって尾張藩の継友と激しく争ったのち、八代将軍に就任し、宗春と抜きがたい対立関係を生じた吉宗も、紀州家の庶流の生まれだったので、青年時代に部屋住みの生活を送っている。吉宗と宗春は、庶流の出身で若いころ部屋住みの時代を過ごしたが、肉親の死によって、「冷飯食い」の立場から一気に、紀州、尾張の藩主にそれぞれ就任するという幸運に恵まれたのである。 海音寺潮五郎の「宗春行状記」は、徳川八代将軍吉宗との対立、不和の関係を通して、御三家尾張徳川家の風流大名、宗春の豪胆奔放な半生を描出した長編小説で、昭和十四年六月から翌年八月にかけて、「風流大名」のタイトルで「現代」に連載された。この作品では、宗春の兄継友が、吉宗との将軍家の継承問題をめぐって争い、敗れた継友の怨恨は、将軍家と尾張家との間にわだかまって、解けぬ不和を生じたため、宗春は兄の怨恨、無念を晴らすべく吉宗との対立を深めてゆくことになっている。たしかに、宗春の胸奥には、継友の宿怨による吉宗への反感があったにちがいないのだが、尾張徳川家は、四代藩主吉通のとき、将軍就任のチャンスを逸しており、このことも宗春のその後の行状に影響を与えているのである。六代将軍家宣の病状が悪化した際に、わが世子家継の幼少と病弱を危ぶんだ家宣は、後継を尾張吉通にするように伝えて世を去ったが、新井白石の反対によって、家宣の幼児家継が七代将軍を継いだものの四年後に病歿してしまったので、家継の後継をめぐって、吉宗と継友との間に将軍家の継承問題が起り、吉宗と争って敗れた継友は、将軍に就任できなかった。したがって、尾張徳川家は、吉通、継友の二度にわたって、将軍就任のチャンスを逃がしたことになり、継友の急死によって七代目藩主となった宗春は、幕府へ、そして吉宗への反感を、いっそうつよめるようになるのである。 対立、不和の関係に終始した吉宗と宗春の二人の体格、容貌、性格について、作者は、「好敵手」の章の末尾で、対照的で正反対だとしてとらえているが、これは小説の対蹠的性格技法である。海音寺潮五郎の作品には、この対蹠的性格技法による性格の相剋を描いた小説が多い。「茶道太平記」の秀吉と利休、「柳沢騒動」の綱吉と光圀、「平将門」の将門と貞盛、「天と地と」の謙信と信玄、「西郷と大久保」の隆盛と利通などはその好例だ。吉宗は青年時代に部屋住みの経験をしたので、下情に通じたさばけた人柄で、人の心を読み、人の心をつかむ、いわゆる人心収攬にすぐれた天才であったといわれており、継友とのいきさつや、尾張家に対する警戒のため、お庭番という直属の探偵を身近においていたので、警戒心のつよい人物だとされ、作者が書いているように、「多分に秘密的な器局の狭さ」の人柄だと誤解されたきらいがある。お庭番は吉宗が紀州から入って本家を継ぐにあたって、紀州から連れて来た藪田助六という人物だった。咋者の海音寺潮五郎は、藪田助六を、「三十五、六の、色の黒い、眼のぎょろっとした、顔もからだも、無骨で、四角で、何となく溜塗の箱を思わせるような人物」として設定し、名前を藪野助八と改変させ、宗春の動向や安財数馬の動静をさぐらせている。吉宗以後には、お庭番をおかなかったのは、使いこなせるほどの力量のある将軍がいなかったからである。 お庭番の薮野助八が、四度にわたって故意に出会ったことになっている継友の寵臣、安財数馬は、継友の急死後、吉宗が毒殺したという噂を信じ、江戸藩邸から鉄砲一挺を盗み出し、脱藩している。安財はその後、吉宗の行列を待ち伏せ、狙撃したが、事成らずと見るや、近くの松林に駈けこみ、切腹して果てた。「宗春行状記」では、数馬が自刃したのち、二年経って継友が急死しており、史実とは前後関係が相違している。だが、「宗春行状記」は、数少ない宗春関係の史料に基き、史実を尊重している作品である。宗春はライバルの吉宗によって大名の地位を追われ、その死にいたるまで蟄居の生活を送ることを余儀なくさせられたので、後半生の行状の多くが、藩の公式史料から抹殺されてしまったとおもわれる。作者は宗春に関する数少ない史料を渉猟し、残された逸話を活かすとともに、幾つかの虚構場面(例えば、「経済談義」や「初入部」の各章にみられる宗春と助八、大岡越前守との接触の場面描写など)を設定して劇的効果を盛り上げているとはいえ、可能な限り史実に従っている。 「名吉屋まつり」の章でふれられている「温知政要」は、宗春の藩主としての抱負と施政方針を打ち出し、吉宗の法律万能政策、倹約政治を全面的に批判した書である。宗春はこの書物において、「国に法令の多いのはむしろ恥辱である。人間は勤むべき大道をはずれることがなければ、すべて自由である」という考えを述べ、千万人のなかで一人でも誤って死刑にしたら、天理にそむく国土の恥として、死刑をおこなわず、また、家が分限さえ守れば、衣服は禁制と官位の規定を守る限り、自由とするなど、自由化政策を採用している。吉宗の倹約政治に対する批判は、最も精彩を放っているといえよう。「倹約をまもらないとのおとがめだが、倹約とはそもそもなんであるか。君主がその身を倹約して下々を安らかならしめることこそ倹約である。いまのいわゆる倹約は、他を責めるに急で、むりな理屈をつけて、家士、町人、百姓からせめとり、表向き倹約らしくふるまうだけだ。それゆえに自分は倹約はきらいだ。自分はこれに反して、江戸入り、国入りの華美によって下々をうるおし、民とともに世を楽しむのだ」と、宗春は主張する。この論説は、「上が倹約ばかり唱えているので、結局は下々が難儀することになる。上が金を使えば、やがて下々まで回り回って、世の中がうるおうようになる」という浪費経済論で、吉宗の「倹約経済論」とは対立し、宗春はみずから尾張藩主として華美による君民共楽を目ざすものであった。宗春の「温知政要」による施政で、江戸、大坂、京都の三都の活気が注入され、名古屋城下は開放的で活気に満ちた別天地となり、「名古屋の繁華で京(興)がさめた」と、京都の賑わいを越えるほどの活況を呈するにいたった。 このような名古屋城下の華やかさは、倹約令をかかげた吉宗にとって愉快であろうはずはなかった。尾張家弾圧の機会を狙っていた吉宗は、享保十七年(一七三二)、幕府の倹約令に違反する三ヶ条を携えた詰問使、滝川播磨守と石川庄九郎を、江戸市ヶ谷の尾張藩邸に派遣した。「宗春行状記」の「お咎め三ヶ条」の章では、詰問使による三ケ条のお咎めを、恐縮して受け止めた宗春が、しばらくの後、第三の倹約の件に関しては、「温知政要」に基く論説によって弁明し、痛烈な切返しをおこなう有様が描かれている。その後の七年間、「自由を愉しみ」「君民共に世を楽しむ」ために、宗春が打ち出した施政方針は、繁華街、遊廓や劇場などの不夜城を現出させ、名古屋の経済に勢いをつけ、一人の死刑囚も出さなかったが、ほどなく、宗春の城下振興策は、次第に崩壊のきざしを見せはじめるにいたった。人心の緩みを知った宗春は、風儀吟味所を設け、ひとびとに遊廓への立ち入りを禁じ、遊廓の撤去を命じた。国元での遊里にたいする厳令にもかかわらず、江戸では宗春自らが吉原に通い続け、しかも、以前からお気に入りだった吉原の「姿海老屋」の遊女、春日野を身請するという、軽率に過ぎたふるまいをおこなった。 宗春のこの愚行の機会をとらえた吉宗は、元文四年(一七三九)、「宗春、不行跡のゆえをもって隠居謹慎」という幕府の沙汰を、尾張藩家老たちに伝え、宗春を市ヶ谷藩邸から麹町の屋敷に退去させた。この年の十月、江戸から名古屋城下に身柄を移された宗春は、三ノ丸東大手の角屋敷に、その後の二十六年間、幽居され、父母の墓参りをゆるされるまでは外出することもなく、少数の供以外と会うこともなかった。明和元年(一七六四)、六十九歳で病没。宗春は没したのち、なおその幽閉をとかれず、彼の墓石は金網をかぶせられた。支藩の高須松平家から迎えられ、八代藩主となった宗勝によって、養父としての扱いをうけることも、藩主代々の祭祀に加えられることも許されなかったが、天保十年(一八三九)、墓石の金網を取り払われ、従二位大納言の官位を追贈された。宗春の行状は、吉宗に対する一種の抵抗であった。宗春が理想とした法の濫用を否定し、人間性を肯定する「自由」と「君民共に世を楽しむ」という政治は、不幸にして挫折したが、こんにちの名古屋市の繁栄は、すべて宗春の施政の基礎の上に築かれたものだといえよう。だが、最近、刊行された矢頭純の力作ドキュメンタリー「徳川宗春――大いなる尾張の挑戦」(海越出版社)によると、宗春の評価は二分され、現在になってもまださだまっておらず、一方は「名古屋が発展する基盤を造った名君」、いま一方は「尾張藩を台なしにしてしまった暗君」とされているという。 「宗春行状記」は、緊縮政策をとる吉宗の享保の改革に挑戦した宗春の豪胆奔放な行状を、男のロマンとして描き出した長編小説だが、この作品にはその当時の社会経済面の実相がとらえられていることは注目に値するといえよう。同じく氏の手になる「本朝女風俗――絵島の恋」にも、家宣の時代の経済的側面が明確にうち出されている。海音寺潮五郎の歴史小説には、経済的視点が欠落しているという批判がある。その好例は、近年、刊行された、会田雄次の「歴史小説の読み方――吉川英治から司馬遼太郎まで」(PHP研究所刊)の「海音寺潮五郎論」だが、この批判が正鵠を得たものであるか否かは、「宗春行状記」や「本朝女風俗」などの作品を一読するならば、おのずからあきらかになるとおもう。 昭和六十二年三月二十六日 磯貝勝太郎 解説者……文芸評論家。日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員、三田文学会会員、大衆文学研究会会員。昭和十年東京の生まれ。慶応大学文学部卒。第十八回長谷川伸賞受賞。「歴史小説の種本」などの著書がある。
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