2024年5月3日金曜日

第十回「ロバート・ルーカス教授の処方箋」 | キヤノングローバル戦略研究所

第十回「ロバート・ルーカス教授の処方箋」 | キヤノングローバル戦略研究所

第十回「ロバート・ルーカス教授の処方箋」

大恐慌との類似性
 9月18日にシカゴ大学のロバート・ルーカス教授が公開セミナーで、現在のアメリカの金融危機について見解を表明した(*)。ルーカス教授は、現代のマクロ経済学のパラダイムをつくった人物である。
 ルーカス教授は、金融危機の本質は、大恐慌の際に起こった銀行取付け(Bank Run)であり、その結果、マネーが消失したことである、という。マネーとは、この場合、金融機関が創造する信用貨幣のことであり、1930年代は銀行預金、現在はレポ取引などによる事実上の短期借入資金がその役割を果たす。これらのマネーが消失したため、経済活動が大幅に悪化した。また、金融危機においては、マネーの急激な欠乏を緩和するという意味で、金融政策も財政政策も一定の役割を果たしうる、とルーカス氏は論じた。
 関連していくつか興味深い論点がある。セミナーの前の立ち話で、ルーカス氏は、「(ケインズ的な)価格の硬直性が今回の危機の大きな要因ではないか」といった。マネーの消失が経済活動に悪影響を与えるというルーカス氏の議論には、物価水準があまり変化しないという暗黙の前提がある。価格の硬直性がなければ、マネーの量が半分になっても、物価や賃金が同時に半分に下がるだけで、実質的な経済活動は悪化しないはずである。マネーの量の急な変化に物価水準の変化が追いつかない、という「価格の硬直性」は、危機のメカニズムのなかで、確かに重要な役割を果たしているのかもしれない。
 しかし、新古典派マクロの生みの親であるルーカス教授からケインズ経済学的な柔軟な発言を聞くのはやや意外な感じがした。
 また、危機の発生を防止するために、決済システムを守る規制を導入すべきだとルーカス教授は主張する。銀行取付けと同じ現象が発生した要因は、サブプライム関連の高リスク金融資産が決済システムに入り込んでいたことである。投資銀行やヘッジファンドは、短期債務を借り入れて、高リスク資産に投資していた。彼らの短期債務は(大恐慌時の)銀行預金と同じ意味でマネーすなわち決済手段であったが、大恐慌時の銀行預金と同様、政府の保証などは受けておらず、高リスク資産を担保としているだけだった。
 この状況は高リスクの企業株式を銀行が大量に保有していた1920年代の状況と同じことである。1930年代には、株価下落によって銀行倒産の懸念が高まり、預金者は預金引き出しに走った。今回の危機でも、サブプライム関連証券の下落によって金融機関の倒産懸念が高まり、短期債務の取付けが起こったわけである。したがって、大恐慌のあとで銀行規制の強化が行われたように、もっと広い範囲の金融機関(銀行に限らず、決済システムに関係する金融機関の全体)について規制強化が必要だ、という。
 大恐慌のあと、グラス・スティーガル法によって銀行と証券の兼営が禁止され、銀行はリスクの高い企業株式に投資できなくなった。また銀行預金は預金保険によって一定額まで保護されることになった。こうした銀行規制が、数十年にわたって大恐慌の再来を防いでいたことは間違いない。同様のことを現在の決済システムを構成する金融機関に対しても実施すべきだ、とルーカス氏は主張するのである。

決済システムへの関与度合いで規制を区別
 筆者の理解が正しければ、ルーカス教授の処方箋は次のようなものである。第一に、金融機関を「決済システムを構成する金融機関(預金や短期債務を借入れて投資する機関)」と「決済システムにかかわらない金融機関(エクイティ性の資金のみを原資に投資する機関)」に峻別し、前者が高リスク資産に投資できないようにする規制をかける(自己資本比率規制もその一環としてあるのだろう)。第二に、市場性の短期債務に関して、一定限度額まで、預金保険と同じような仕組みで保証するか、なんらかの形で政府保証をつける。こうして決済システムの安定性を回復し、金融危機の再発を防ぐという構想である。
 これは、金融危機の本質を「銀行取付けによるマネーの消失」とみるならば、きわめて自然で直截的な処方箋である。ルーカス教授の見解は、今後の金融規制を考えるうえで、一つの参照点となる考え方だといってよいのではないだろうか。
 しかし、このような政策提言が、これからの世界経済や金融システムにとって望ましいものであるかどうか大いに議論の余地があるし、また、実務的に実行可能かどうかについても疑問はある。大恐慌のあとの規制は、金融技術の進歩やビジネスモデルの変化によって金融業の実態とかけ離れ、グラス・スティーガル法も廃止された。筆者はルーカス教授に次のような質問をした。金融規制で決済システムを高リスク資産から隔離しようとしても、金融技術の進歩などによって、決済システムを構成する金融機関が高リスク資産に投資する状況がどうしても発生してしまうのではないか。
 ルーカス教授の答えは、いかにも彼らしいプラクティカルなものだった。確かに、いずれ規制の壁は破られ、バブルや金融危機は再発するだろう。しかし、大恐慌後の銀行規制は、数十年にわたって経済の安定をもたらした。今回新しい規制を入れるとすれば、それは、とりあえず今後しばらく(望むらくは数十年)の間、経済を安定させるためであり、それ以上を望むことはそもそもできないのではないか。
 ルーカス氏は、学問研究においても、できることとできないことを区別し、できる範囲を確定したのちにそのなかで問題を立て、厳密な結果を出す、というプラクティカルなスタイルを通してきた。金融に関する政策提言でもそのスタイルは生きているといえる。
 ところで、ルーカス教授の分析では、金融危機で消失したマネー(信用貨幣)がどうすれば再生するのか、という問題は扱われていない。この連載の結論を先取りしていえば、筆者は、そこに不良資産処理の問題がかかわっているのではないか、と考えている。

(*) セミナー資料:
http://www.sirfe.com/design/default/pdf/The%20Current%20U.S.%20Recession_Robert%20E.%20Lucas.pdf

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