| ||||||||||||||||||||||||
メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書) Kindle版
2 楔形文字の起源 絵文字の起源はトークン?
ところで、一九七〇年代の半ば頃になって、ウルク古拙文書に見られる絵文字は、一般に言われるような絵文字ではなく、「トークン」と呼ばれる小さな粘土製の計算具(カウンター)を、先の尖った筆記具で粘土板上に描き写したもので、ウルク古拙文書に現われるいくつかの絵文字の起源はトークンにある、と主張する研究者が現われました。アメリカのテキサス大学美術史学科教授であったデニス・シュマント=ベッセラがその人です。シュマント=ベッセラは、一九九二年にそれまでの研究成果をまとめて、『文字以前』(Before Writing) (上下二巻)と題する本を出版しましたが、一九九六年には、その普及版も出版しています。以下に、シュマント=ベッセラのトークン理論を紹介しておきましょう。 トークン財の管理に用いた計算具 シュマント=ベッセラは、各地の博物館を訪ねて、土器出現以前の新石器時代の粘土製遺物を調べていた際、大きさは一~三センチメートル(大型のものは三~五センチメートル)で、円錐形、球形、円盤形、円筒形など、さまざまな形をした粘土製小遺物が、西アジア各地の遺跡から出土しているのに気づきました。彼女が確認できたものだけでも八〇〇〇個以上と言います。シュマント=ベッセラは、これらをトークンと呼びます。これらの遺物に共通している点は、例外もあるものの、ていねいに作られており、火で焼かれていたことでした。このことは、これらが、遊び道具などではなく、実際の生活で重要な役割をになっていたことを意味します。 はじめは、トークンが何であるかよくわかりませんでしたが、何人かの先駆的研究によって、それが財の管理に用いられる計算具であることがわかりました。シュマント=ベッセラは、これらのトークンを円錐形、球形、円盤形、円筒形、そして四面体など、多くは無印のプレイン・トークンとそれ以外のもっと多様な形をしたコンプレックス・トークンに分けました。コンプレックス・トークンは、形が多様であるばかりでなく、しばしば刻み目や凹みなどで印(マーク)が付けられていました(図3‐2~3)。
プレイン・トークンはどう使われたか 最初に登場したのはプレイン・トークンで、最も古いものは紀元前八〇〇〇年頃の半定住農耕村落や定住農耕村落の遺跡で発見されました。そして、文字による財の出納管理が、トークンによる財の出納管理に取って代わる紀元前三〇〇〇年頃まで継続して使われました。プレイン・トークンは、主に穀物の貸し借りや家畜の飼養委託の管理に使われたと思われます。 たとえば、収穫前に主食の大麦の蓄えがなくなってしまった人は、収穫までの食糧として蓄えにゆとりのある人から大麦を、たとえば三単位量借りることになります。今ならば借用書を書くことになるでしょうが、当時は文字がありませんので、債務者(借りた人)は債権者(貸した人)に大麦一単位量を意味したと思われる円錐形のトークンを三個渡します。債権者はこれら三個のトークンを大事に保管しておき、収穫時に債務者から貸した大麦を返済してもらい、代わりにトークンを廃棄処分するのです。 また、羊を所有している人が牧夫に、たとえば五単位の羊の世話を委託したとします。その際、羊の所有者(債権者)は委託した羊の単位数に見合うトークン、たとえば羊一単位(一〇匹の羊の群れなど)を意味したと思われる凸レンズ形のトークンを五個保管しておきます。委託の期間が終わって牧夫(債務者)が羊を連れ帰った際、牧夫と羊の持ち主(債権者)は保管されているトークンに基づいて羊の引渡しと委託料の精算を行い、保管していたトークンを廃棄するといった具合です。 実際には、富を蓄えた村の有力者は、複数の人に大麦を貸したり、羊の飼養を委託していた可能性があります。そうすると、複数の債務者のトークンが混ざらないよう保管する必要があります。また、債務者にとっては、債権者がトークンの数をごまかすのを防ぐ必要もあります。 そこで、それまではたぶん債務者ごとに壺に入れて保管していたトークンを、中空のボールの形をした粘土製封球に入れて封印し、保管するようになりました。紀元前三五〇〇年頃のことと思われます。しかし、いったんトークンを封球に入れてしまうと、封球を壊さないかぎり中味が確かめられないという欠陥がありました。この欠陥を解決するために考え出されたのが、生乾きの粘土製封球の表面に、中に保管しているトークンと同じものを同じ数だけくっつけておくことでした。ところが、くっつけたトークンは何かの拍子にはずれてしまうことがあります。幸いなことに、トークンがはずれても、封球の表面にはトークンを押しつけた痕が残ります(図3‐4)。
そこで考えついたのが、トークンを封球の中に入れる前に、まず一つ一つのトークンの押印痕を封球の表面に残し、そのあとでトークンを封球の中に入れ、封球を封印することでした。そうすれば、封球を割らなくても中味が何であるかを知ることができる上、トークンの保管も完璧です。やがて、封球の表面に、保管すべきトークンを押しつけて痕を残し、その上に円筒印章を転がして封印すれば、封球の中にトークンを入れる必要がないことに気がつきました。 こうして出現したのが表面にトークンの押印痕がある、中が詰まった粘土板でした。シュマント=ベッセラは、プレイン・トークンの押印痕が後の楔形文字の数字の起源であると考えます。 コンプレックス・トークンから線描絵文字へ 他方、コンプレックス・トークンが出現したのは紀元前三五〇〇年頃でした。ちょうどメソポタミア南部で都市文明が成立する時代です。プレイン・トークンが村落遺跡から見つかっているのに対し、コンプレックス・トークンは、神殿など、大きな公的建造物のある都市遺跡たとえば、イラクのウルク、イランのスーサ、シリアのハブバ・カビーラなどから見つかっている点が注目されます。 シュマント=ベッセラによると、これらコンプレックス・トークンは、それぞれ都市で作られた製品の一単位を表わしました。コンプレックス・トークンの多くに孔があけられていることから、コップレックス・トークンは、封球に入れてではなく、この孔に細ひもを通し、ひもの結び目を封泥(ブッラ)で封印して保管したものと考えられます(図3‐5)。
プレイン・トークンの場合は、中の詰まった粘土板にトークンを押しつけ、押印痕を残すことでトークンの代わりとしましたが、コンプレックス・トークンの場合は、形が複雑な上に、刻み目や凹みなどの印(マーク)があるため、粘土板上にはっきりした押印痕を残すことが難しい場合がありました。そのため、先の尖った筆記具でその輪郭とマークを粘土板の表面に線描きしました。
いったん線描絵文字が発明されると、トークン以外の物も線描文字として描かれ、絵文字の数が増加します。シュマント=ベッセラは、これがウルク古拙文書の線描絵文字の起源で、この線描絵文字がやがて楔形文字になったのだと主張します(表3‐1)。
楔形文字は、最初の楔形文書が出現した時点ですでに財の管理という実用に役立っていましたが、これは、文字出現以前に五〇〇〇年にわたってトークンによる財の管理システムが機能していたため、そのシステムを楔形文字による財の管理システムに切り替えるだけですんだからです。
3 楔形文字の普及 表語文字から表音文字へ 楔形文字はシュメール人が発明したと考えられていますが、シュメール文字としての楔形文字はそれぞれ一つの単語を意味する表語文字(表意文字)でした。最初の文書は、「大麦××単位量」とか「油○○単位量」のように、数を表わす記号(数字)と物を表わす表語文字を並べただけのメモ風の記録でした。 しかし、すぐに、納入者または受領者の名前を併せて記録する必要が出てきました。たとえば、「エンリルティ」という人名は「(神)エンリルは生命(である)」という意味ですが、この人名の最後には、形のない「生命」を表わす TI(L)(後に母音が来ないとLは発音されない)という語が含まれています。この語を表記する時に、発音が同じであるという理由で、「矢」の絵文字である からできた TI を使いました。 さらに、受領・支出についての場所や目的など、より詳しい情報も記録する必要が出てきました。そのためには、日本語の「てにをは」にあたる助辞を表記する必要がありました。シュメール人は、楔形文字が持つ意味と発音を切り離し、いくつかの楔形文字を特定の音価を持つ表音文字として利用し、単語と単語の間の文法的な関係を表わす助辞を書き添えるようになりました。 こうして、楔形文字は物の出納記録だけでなく、もっと複雑な戦勝記録や物語を書き記すことができるようになったのです。 楔形文字の普及 楔形文字が表音文字としても使用できるようになると、楔形文字が持つ音価を利用して、シュメール語とは全く異なる言葉を表記することが可能になりました。 初期王朝時代のメソポタミア南部には、シュメール人の他に、セム語族に属するアッカド語を話すアッカド人も住んでいました。アッカド人は自分たちの言葉を表記する文字を持っていませんでしたが、シュメール人の楔形文字をもっぱら表音文字として利用して、自分たちの言葉であるアッカド語を表記しました。このアッカド語は、後で述べるように、古代オリエント世界の最初の共通語となりました。 そしてこんどは、メソポタミアの周辺に居住していたフリ人(紀元前三千年紀後半~二千年紀前半)、ヒッタイト人(紀元前二千年紀)、そしてウラルトゥ人(紀元前一千年紀前半)たちも、アッカド人が用いていた楔形文字を借用して、フリ語、ヒッタイト語、ウラルトゥ語などを表記するのに利用しました。その際、アッカド人をはじめ、アッカド人にならって楔形文字を借用した人々は、いくつかの楔形文字を表語文字としても利用しました。ちょうど日本人が、漢字から作られた平仮名(表音文字)に漢字(表語文字)を混ぜて文章を書くのに似ています。 「アマルナ文書」とアッカド語 今から一二〇年も前の一八八七年のことですが、エジプトのテル・エル=アマルナで農夫が偶然たくさんの粘土板文書を発見しました。テル・エル=アマルナは、エジプト王アメンヘテプ四世(イクエンアテン)が、アマルナ革命の実現をめざして建設した、新都アケトアテンがおかれていたところです。エジプトの農夫が発見した粘土板文書とその後発見された粘土板文書を合わせると、現在三八二点(テル・エル=ヘシ出土の一点も含む)の「アマルナ文書」が知られています。このうち、書記や書記見習いが書き残したと思われる文学作品や語彙集三二点を除いた残りの三五〇点はすべて手紙です。 その内訳は、約一〇%が、エジプト王と対等の立場でエジプト王に書き送った、バビロニア、アッシリア、ミタンニ、ヒッタイト、アラシア(キプロス島)およびアルザワの王たちの手紙と、エジプト王がバビロニアとアルザワの王に書き送った手紙の写し(?)で、「国際書簡」と呼ばれています。残り約九〇%は、当時エジプトの支配下にあったシリア・パレスティナの諸侯がエジプト王に書き送った手紙、すなわち「属王書簡」です。驚くべきことに、これらは、三点の例外(二点はヒッタイト語、一点はフリ語)を除いて、すべて楔形文字を使い、アッカド語で書かれていました。 この時代、すなわち紀元前一四世紀のオリエントは、各国の使節が往き来し、盛んに交易が行われた国際的な時代でしたが、国家間でやり取りされた手紙の言葉はアッカド語で、粘土板に楔形文字で書かれていました。これは、「国際書簡」について言えるばかりでなく、エジプトの支配下にあったシリア・パレスティナの諸侯が書き送った「属王書簡」についても言えることです。中には、カナン語(当時シリア・パレスティナで使われていた言語)なまりのひどいアッカド語で書かれた手紙もありますが、外交書簡には、みんなアッカド語を使いました。アッカド語は、まさに、世界最古の国際共通語でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿