夢十夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に
坐っていると、
仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、
輪郭の
柔らかな
瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、
唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと
判然云った。自分も
確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から
覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を
開けた。大きな
潤のある眼で、長い
睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な
眸の奥に、自分の姿が
鮮に浮かんでいる。
自分は
透き
徹るほど深く見えるこの黒眼の
色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の
傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに
たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、
私の顔が見えるかいと
一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、
埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の
破片を
墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また
逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って
首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の
傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い
眸のなかに
鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと
崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い
睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな
滑かな
縁の
鋭どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
湿った土の
匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の
破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている
間に、
角が取れて
滑かになったんだろうと思った。
抱き
上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は
苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い
墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は
勘定した。
しばらくするとまた
唐紅の
天道がのそりと
上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、
苔の
生えた丸い石を眺めて、自分は女に
欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から
斜に自分の方へ向いて青い
茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと
揺ぐ
茎の
頂に、心持首を
傾けていた細長い一輪の
蕾が、ふっくらと
弁を開いた。真白な
百合が鼻の先で骨に
徹えるほど匂った。そこへ
遥の上から、ぽたりと
露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の
滴る、白い
花弁に
接吻した。自分が百合から顔を離す
拍子に思わず、遠い空を見たら、
暁の星がたった一つ
瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
こんな夢を見た。
和尚の室を
退がって、
廊下伝いに自分の部屋へ帰ると
行灯がぼんやり
点っている。
片膝を
座蒲団の上に突いて、灯心を
掻き立てたとき、花のような
丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。
襖の
画は
蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、
遠近とかいて、
寒むそうな漁夫が
笠を
傾けて土手の上を通る。
床には
海中文殊の
軸が
懸っている。
焚き残した線香が暗い方でいまだに
臭っている。広い寺だから
森閑として、
人気がない。黒い
天井に差す
丸行灯の丸い影が、
仰向く
途端に生きてるように見えた。
立膝をしたまま、左の手で
座蒲団を
捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく
直して、その上にどっかり
坐った。
お前は
侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと
和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の
屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。
口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと
向をむいた。
怪しからん。
隣の広間の床に
据えてある置時計が次の
刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また
入室する。そうして和尚の首と悟りと
引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。
もし悟れなければ
自刃する。侍が
辱しめられて、生きている訳には行かない。
綺麗に死んでしまう。
こう考えた時、自分の手はまた思わず
布団の下へ
這入った。そうして
朱鞘の短刀を
引き
摺り出した。ぐっと
束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい
刃が一度に暗い部屋で光った。
凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく
切先へ集まって、
殺気を一点に
籠めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように
縮められて、
九寸五分の先へ来てやむをえず
尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。
唇が
顫えた。
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから
全伽を組んだ。――
趙州曰く
無と。無とは何だ。
糞坊主めとはがみをした。
奥歯を強く
咬み
締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
懸物が見える。行灯が見える。
畳が見える。和尚の
薬缶頭がありありと見える。
鰐口を
開いて
嘲笑った声まで聞える。
怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の
香がした。何だ線香のくせに。
自分はいきなり
拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど
擲った。そうして奥歯をぎりぎりと
噛んだ。
両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。
膝の
接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。
無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に
口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと
思に身を
巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに
砕いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと坐っていた。
堪えがたいほど切ないものを胸に
盛れて忍んでいた。その切ないものが
身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと
焦るけれども、どこも一面に
塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。
行灯も
蕪村の
画も、畳も、
違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って
無はちっとも
現前しない。ただ
好加減に坐っていたようである。ところへ
忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。
こんな夢を見た。
六つになる子供を
負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が
潰れて、
青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで
大人である。しかも
対等だ。
左右は
青田である。
路は細い。
鷺の影が時々
闇に差す。
「
田圃へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を
後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって
鷺が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し
怖くなった。こんなものを
背負っていては、この先どうなるか分らない。どこか
打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す
途端に、背中で、
「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ
「
御父さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
自分は黙って森を
目標にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると
二股になった。自分は
股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り
日ヶ
窪、右
堀田原とある。
闇だのに赤い字が
明かに見えた。赤い字は
井守の腹のような色であった。
「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ
抛げかけていた。自分はちょっと
躊躇した。
「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく
盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。
「だから
負ってやるからいいじゃないか」
「負ぶって
貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか
厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で
独言のように云っている。
「何が」と
際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は
嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども
判然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も
洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ
這入っていた。
一間ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「
御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年
辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、
忽然として頭の中に起った。おれは
人殺であったんだなと始めて気がついた
途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
広い土間の真中に涼み台のようなものを
据えて、その
周囲に小さい
床几が並べてある。台は黒光りに光っている。
片隅には四角な
膳を前に置いて
爺さんが一人で酒を飲んでいる。
肴は煮しめらしい。
爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして
皺と云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白い
髯をありたけ
生やしているから
年寄と云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。ところへ裏の
筧から
手桶に水を
汲んで来た
神さんが、
前垂で手を
拭きながら、
「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは
頬張った
煮〆を
呑み込んで、
「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭いた手を、細い帯の間に
挟んで横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは
茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると神さんが、
「御爺さんの
家はどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
「
臍の奥だよ」と云った。神さんは手を細い帯の間に
突込んだまま、
「どこへ行くかね」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「あっちへ行くよ」と云った。
「
真直かい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、
障子を通り越して柳の下を抜けて、
河原の方へ
真直に行った。
爺さんが表へ出た。自分も
後から出た。爺さんの腰に小さい
瓢箪がぶら下がっている。肩から四角な箱を
腋の下へ釣るしている。
浅黄の
股引を
穿いて、浅黄の
袖無しを着ている。
足袋だけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の
手拭を出した。それを
肝心綯のように細長く
綯った。そうして
地面の真中に置いた。それから手拭の
周囲に、大きな丸い輪を
描いた。しまいに肩にかけた箱の中から
真鍮で
製らえた
飴屋の
笛を出した。
「今にその手拭が
蛇になるから、見ておろう。見ておろう」と
繰返して云った。
子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。
爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。
草鞋を
爪立てるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。
怖そうにも見えた。面白そうにもあった。
やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと
撮んで、ぽっと
放り
込んだ。
「こうしておくと、箱の中で
蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも
追いて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「蛇になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
「今になる、蛇になる、
きっとなる、笛が鳴る、」
と
唄いながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ
這入り出した。始めは
膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に
浸って見えなくなる。それでも爺さんは
「深くなる、夜になる、
真直になる」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして
髯も顔も頭も
頭巾もまるで見えなくなってしまった。
自分は爺さんが
向岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、
蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
こんな夢を見た。
何でもよほど古い事で、
神代に近い昔と思われるが、自分が
軍をして運悪く
敗北たために、
生擒になって、敵の大将の前に引き
据えられた。
その頃の人はみんな背が高かった。そうして、みんな長い髯を
生やしていた。革の帯を
締めて、それへ棒のような
剣を釣るしていた。弓は
藤蔓の太いのをそのまま用いたように見えた。
漆も塗ってなければ
磨きもかけてない。
極めて
素樸なものであった。
敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、
酒甕を伏せたようなものの上に腰をかけていた。その顔を見ると、鼻の上で、左右の
眉が太く
接続っている。その頃
髪剃と云うものは無論なかった。
自分は
虜だから、腰をかける訳に行かない。草の上に
胡坐をかいていた。足には大きな
藁沓を
穿いていた。この時代の藁沓は深いものであった。立つと
膝頭まで来た。その
端の所は
藁を少し
編残して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
大将は
篝火で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。これはその頃の習慣で、
捕虜にはだれでも一応はこう聞いたものである。生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと
屈服しないと云う事になる。自分は
一言死ぬと答えた。大将は草の上に突いていた弓を向うへ
抛げて、腰に釣るした棒のような
剣をするりと抜きかけた。それへ風に
靡いた
篝火が横から吹きつけた。自分は右の手を
楓のように開いて、
掌を大将の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。待てと云う相図である。大将は太い剣をかちゃりと
鞘に収めた。
その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に
逢いたいと云った。大将は夜が開けて
鶏が鳴くまでなら待つと云った。鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。自分は大きな
藁沓を組み合わしたまま、草の上で女を待っている。夜はだんだん
更ける。
時々篝火が
崩れる音がする。崩れるたびに
狼狽えたように
焔が大将になだれかかる。真黒な
眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ
抛げ
込んで行く。しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
暗闇を
弾き
返すような勇ましい音であった。
この時女は、裏の
楢の木に
繋いである、白い馬を引き出した。
鬣を三度
撫でて高い背にひらりと飛び乗った。
鞍もない
鐙もない
裸馬であった。長く白い足で、
太腹を
蹴ると、馬はいっさんに
駆け出した。誰かが篝りを
継ぎ
足したので、遠くの空が薄明るく見える。馬はこの明るいものを
目懸けて闇の中を飛んで来る。鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を
蹴っている。馬は
蹄の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。女の髪は吹流しのように
闇の中に尾を
曳いた。それでもまだ
篝のある所まで来られない。
すると
真闇な道の
傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。女は身を
空様に、両手に握った
手綱をうんと
控えた。馬は前足の
蹄を堅い岩の上に
発矢と
刻み込んだ。
こけこっこうと
鶏がまた
一声鳴いた。
女はあっと云って、
緊めた手綱を一度に
緩めた。馬は
諸膝を折る。乗った人と共に
真向へ前へのめった。岩の下は深い
淵であった。
蹄の
跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く
真似をしたものは
天探女である。この蹄の
痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の
敵である。
運慶が
護国寺の山門で
仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに
下馬評をやっていた。
山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が
斜めに山門の
甍を隠して、遠い青空まで
伸びている。松の緑と
朱塗の門が互いに
照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を
眼障にならないように、
斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで
突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その
中でも車夫が一番多い。
辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を
拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を
彫るのかね。へえそうかね。
私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも
日本武尊よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を
端折って、帽子を
被らずにいた。よほど無教育な男と見える。
運慶は見物人の評判には委細
頓着なく
鑿と
槌を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の
辺をしきりに
彫り
抜いて行く。
運慶は頭に小さい
烏帽子のようなものを乗せて、
素袍だか何だかわからない大きな
袖を
背中で
括っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。
仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と
我れとあるのみと云う態度だ。
天晴れだ」と云って
賞め出した。
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。
大自在の妙境に達している」と云った。
運慶は今太い
眉を
一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を
竪に返すや否や
斜すに、上から槌を
打ち
下した。堅い木を
一と
刻みに
削って、厚い
木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ
開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その
刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を
挾んでおらんように見えた。
「よくああ
無造作に鑿を使って、思うような
眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから
独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に
埋っているのを、
鑿と
槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が
彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく
家へ帰った。
道具箱から
鑿と
金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての
暴風で倒れた
樫を、
薪にするつもりで、
木挽に
挽かせた手頃な
奴が、たくさん積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく
彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を
片っ
端から彫って見たが、どれもこれも仁王を
蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は
埋っていないものだと悟った。それで運慶が
今日まで生きている理由もほぼ解った。
何でも大きな船に乗っている。
この船が毎日毎夜すこしの
絶間なく黒い
煙を吐いて
浪を切って進んで行く。
凄じい音である。けれどもどこへ行くんだか分らない。ただ波の底から
焼火箸のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来てしばらく
挂っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。そうして、しまいには
焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに
蒼い波が遠くの向うで、
蘇枋の色に
沸き返る。すると船は
凄じい音を立ててその
跡を
追かけて行く。けれども決して追つかない。
ある時自分は、船の男を
捕まえて聞いて見た。
「この船は西へ行くんですか」
船の男は
怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「なぜ」と問い返した。
「落ちて行く日を追かけるようだから」
船の男はからからと笑った。そうして向うの方へ行ってしまった。
「西へ行く日の、
果は東か。それは
本真か。
東出る日の、
御里は西か。それも本真か。身は波の上。
枕。流せ流せ」と
囃している。
舳へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い
帆綱を
手繰っていた。
自分は大変心細くなった。いつ
陸へ上がれる事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ黒い
煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。その波はすこぶる広いものであった。
際限もなく
蒼く見える。時には
紫にもなった。ただ船の動く
周囲だけはいつでも真白に
泡を吹いていた。自分は大変心細かった。こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
乗合はたくさんいた。たいていは異人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。空が曇って船が揺れた時、一人の女が
欄に
倚りかかって、しきりに泣いていた。眼を拭く
手巾の色が白く見えた。しかし
身体には
更紗のような洋服を着ていた。この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
ある晩
甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が
金牛宮の
頂にある
七星の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。
或時サローンに
這入ったら
派手な
衣裳を着た若い女が向うむきになって、
洋琴を
弾いていた。その
傍に背の高い立派な男が立って、唱歌を
唄っている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事にはまるで
頓着していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れているようであった。
自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が
甲板を離れて、船と縁が切れたその
刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は
厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし
捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を
縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い
煙を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを
抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
床屋の敷居を
跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に
開いて、残る二方に鏡が
懸っている。鏡の数を
勘定したら六つあった。
自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると
御尻がぶくりと云った。よほど坐り
心地が好くできた椅子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の
後には窓が見えた。それから
帳場格子が
斜に見えた。格子の中には人がいなかった。窓の外を通る
往来の人の腰から上がよく見えた。
庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って
被っている。女もいつの間に
拵らえたものやら。ちょっと解らない。双方とも得意のようであった。よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
豆腐屋が
喇叭を吹いて通った。喇叭を口へあてがっているんで、
頬ぺたが
蜂に
螫されたように
膨れていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。
生涯蜂に螫されているように思う。
芸者が出た。まだ
御化粧をしていない。島田の根が
緩んで、何だか頭に
締りがない。顔も寝ぼけている。
色沢が気の毒なほど悪い。それで
御辞儀をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
すると白い着物を着た大きな男が、自分の
後ろへ来て、
鋏と
櫛を持って自分の頭を眺め出した。自分は薄い
髭を
捩って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男は、
何にも云わずに、手に持った
琥珀色の
櫛で軽く自分の頭を
叩いた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分は白い男に聞いた。白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を
っていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。
「
旦那は表の金魚売を御覧なすったか」
自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で
危険と云ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の
袖の下に自転車の輪が見えた。人力の
梶棒が見えた。と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。
やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を
刈り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。
粟餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい
杵をわざと
臼へあてて、
拍子を取って餅を
搗いている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
自分はあるたけの視力で鏡の
角を
覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い
眉毛の濃い
大柄な女で、髪を
銀杏返しに
結って、
黒繻子の
半襟のかかった
素袷で、
立膝のまま、
札の
勘定をしている。札は十円札らしい。女は長い
睫を伏せて薄い
唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。
膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
自分は
茫然としてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、
帳場格子の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
代を払って表へ出ると、
門口の左側に、
小判なりの
桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、
斑入の金魚や、
痩せた金魚や、
肥った金魚がたくさん入れてあった。そうして金魚売がその
後にいた。金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、
頬杖を突いて、じっとしている。騒がしい
往来の活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。
世の中が何となくざわつき始めた。今にも
戦争が起りそうに見える。焼け出された
裸馬が、夜昼となく、屋敷の
周囲を
暴れ
廻ると、それを夜昼となく
足軽共が
犇きながら
追かけているような心持がする。それでいて家のうちは
森として静かである。
家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。
床の上で
草鞋を
穿いて、黒い
頭巾を
被って、勝手口から出て行った。その時母の持っていた
雪洞の
灯が暗い
闇に細長く射して、
生垣の手前にある古い
檜を照らした。
父はそれきり帰って来なかった。母は毎日三つになる子供に「御父様は」と聞いている。子供は何とも云わなかった。しばらくしてから「あっち」と答えるようになった。母が「いつ御帰り」と聞いてもやはり「あっち」と答えて笑っていた。その時は母も笑った。そうして「今に御帰り」と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。けれども子供は「今に」だけを覚えたのみである。時々は「御父様はどこ」と聞かれて「今に」と答える事もあった。
夜になって、
四隣が静まると、母は帯を
締め直して、
鮫鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ
背負って、そっと
潜りから出て行く。母はいつでも
草履を穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
土塀の続いている屋敷町を西へ
下って、だらだら坂を
降り
尽くすと、大きな
銀杏がある。この銀杏を
目標に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。片側は
田圃で、片側は
熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の
木立になる。それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。
鼠色に洗い出された
賽銭箱の上に、大きな鈴の
紐がぶら下がって昼間見ると、その鈴の
傍に
八幡宮と云う額が
懸っている。八の字が、
鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは
家中のものの射抜いた
金的を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。たまには
太刀を納めたのもある。
鳥居を
潜ると杉の
梢でいつでも
梟が鳴いている。そうして、
冷飯草履の音がぴちゃぴちゃする。それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで
柏手を打つ。たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。母の考えでは、夫が
侍であるから、弓矢の神の
八幡へ、こうやって是非ない
願をかけたら、よもや
聴かれぬ道理はなかろうと
一図に思いつめている。
子供はよくこの鈴の音で眼を
覚まして、
四辺を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると
旨く
泣きやむ事もある。またますます
烈しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。
一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を
摺りおろすように、背中から前へ廻して、両手に
抱きながら拝殿を
上って行って、「好い子だから、少しの
間、待っておいでよ」ときっと自分の頬を子供の頬へ
擦りつける。そうして細帯を長くして、子供を
縛っておいて、その片端を拝殿の
欄干に
括りつける。それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり
御百度を踏む。
拝殿に
括りつけられた子は、
暗闇の中で、細帯の
丈のゆるす限り、広縁の上を
這い廻っている。そう云う時は母にとって、はなはだ
楽な夜である。けれども
縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。御百度の足が非常に早くなる。大変息が切れる。仕方のない時は、中途で拝殿へ
上って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
こう云う風に、幾晩となく母が気を
揉んで、
夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に
浪士のために殺されていたのである。
こんな
悲い話を、夢の中で母から聞いた。
庄太郎が女に
攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に
就いていると云って
健さんが知らせに来た。
庄太郎は町内一の
好男子で、
至極善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を
被って、夕方になると
水菓子屋の店先へ腰をかけて、
往来の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心している。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。水菓子にはいろいろある。
水蜜桃や、
林檎や、
枇杷や、バナナを
綺麗に
籠に盛って、すぐ
見舞物に持って行けるように二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては
綺麗だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
この色がいいと云って、
夏蜜柑などを品評する事もある。けれども、かつて
銭を出して水菓子を買った事がない。ただでは無論食わない。色ばかり
賞めている。
ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。身分のある人と見えて立派な服装をしている。その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。そこで大事なパナマの帽子を
脱って
丁寧に
挨拶をしたら、女は
籠詰の一番大きいのを
指して、これを下さいと云うんで、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。すると女はそれをちょっと
提げて見て、大変重い事と云った。
庄太郎は元来
閑人の上に、すこぶる
気作な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女といっしょに水菓子屋を出た。それぎり帰って来なかった。
いかな庄太郎でも、あんまり
呑気過ぎる。
只事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
何でもよほど長い電車に違いない。庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり
生えていた。女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に
絶壁の
天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を
覗いて見ると、
切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、
豚に
舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が
大嫌だった。けれども命には
易えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い
檳榔樹の
洋杖で、豚の
鼻頭を
打った。豚はぐうと云いながら、ころりと
引っ
繰り
返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと
一と
息接いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に
擦りつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた
真逆様に穴の底へ
転げ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、
遥の青草原の尽きる
辺から幾万匹か数え切れぬ豚が、
群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を
目懸けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は
心から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ
丁寧に檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ
触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。
覗いて見ると底の見えない絶壁を、
逆さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら
怖くなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が
生えて、青草を踏み分けるような勢いで
無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を
七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が
蒟蒻のように弱って、しまいに豚に
舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは
善くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
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