バルファキスが語る、パンデミック以後の世界経済のゆくえ | 早川健治 | Kenji Hayakawa
バルファキスが語る、パンデミック以後の世界経済のゆくえ
ヤニス・バルファキス(聴き手:ロバート・ジョンソン、新経済思想研究所INET所長)
ヤニス・バルファキスはギリシャの現職国会議員。経済学の教授としてアメリカやイギリス、ギリシャやオーストラリア等で教鞭をとった後、2015年1月に急進左派連合(シリザ)所属議員として政界入り。欧州委員会・欧州中央銀行・国際通貨基金の三者からなる債権集団、通称「トロイカ」からギリシャの財政を守るために財務大臣として死闘を繰り広げる。しかしトロイカの巧みな戦術の前にツィプラス内閣は内部分裂を起こし、同年7月にバルファキスはトロイカへの降伏書とも言える覚書(MoU)への財務相署名を要請されたが、これを拒否して辞任。その後は2016年に「欧州民主主義運動2025」(DiEM25)を、また2018年には「プログレッシブ・インターナショナル」を立ち上げ、国際的な民主主義運動を盛り上げ続けてきた。2019年にはDiEM25から派生した新政党「MeRA25」の党首としてギリシャ議会に当選。このときMeRA25はバルファキスも含め9議席を獲得した。著書に『世界牛魔人―グローバル・ミノタウロス』『黒い匣』『わたしたちを救う経済学』『父が娘に語る』などがある。今回紹介するインタビューは、2020年7月にYouTubeで一般向けにライブ配信されたものだ。
ロバート・ジョンソン みなさん、おはようございます。新経済思想研究所所長のロバート・ジョンソンです。本日はすばらしいゲストをお招きしています―ヤニス・バルファキスさんです。「2008年の金融崩壊と2020年のパンデミック―資本主義を一変させた組み合わせ」というテーマについてお話していただきます。講演のあとでQ&A(質疑応答)の時間も設けてあります。
バルファキスさんは経済学者や哲学者、著作家や政治家といった様々な顔をもつ人物です。ギリシャ国会議員でもあり、MeRA25党首やDiEM25共同創始者でもあります。ギリシャの財務相を務めた時期もありました。また、バーニー・サンダースと一緒に「プログレッシブ・インターナショナル」を共同創設し、世界各地の進歩派勢力の一致団結を促進しています。経済学者としてケンブリッジ大学やテキサス大学オースティン校などで教鞭をとり、Adults in the Room(邦題:『黒い匣』)、And the Weak Suffer What they Must?(邦題:『わたしたちを救う経済学』)、そしてThe Global Minotaur(邦題:『世界牛魔人―グローバルミノタウロス』)含め多くの作品を著しています。少し個人的な話になりますが、最近私はバルファキスご夫妻と一緒に「Economics and Beyond」シリーズの一環としてとても面白いポッドキャストを収録させていただきました。みなさんもお気づきかと思いますが、私は彼に対して深い尊敬の念を抱いています―勇気と想像力にあふれる人物だからです。[INETと経済協力開発機構(OECD)による2015年]パリ会議ではジョーセフ・スティグリッツとバルファキスさんと私で公開対談を行ったわけですが、あのときは様々な重圧を背負っていたにも関わらずINETを応援していただき感無量でした。公の場でも私生活においても勇敢さと明瞭さを基調とする、すばらしい人物です。バルファキスさん、今日はこの場にお越しいただき本当にありがとうございます。よろしくお願い申し上げます。
ヤニス・バルファキス 僕の方こそ、きみとこうして時間を過ごせるのをとても嬉しく感じているよ。オンライン・オフライン問わずINETの活動を応援できることを光栄に思う。INETは現代の様々な重要課題に取り組んでいるからね。導入の言葉にも感謝している。そして、僕にとって個人的に大切なテーマを扱えることを嬉しく思う。ありがとう。
よくあるパターンとして、今起きている危機―コロナウイルスに端を発する世界的な経済活動の停滞―を2008年の金融崩壊と対比して論じる人がいるよね。でもこれは間違っていると思う。2020年危機は2008年危機と切り離せるものではなく、むしろ2008年危機の延長線上で考えなければいけない事態だからさ。
もう少しさかのぼって考えてみようか。ブレトンウッズ体制終焉後に着々と金融化(financialization)が進み、世界レベルで資本が移動するようになった現代において、経済分析の定跡に従ってしまっては、つまり「アメリカ経済」「イギリス経済」「ギリシャ経済」「日本経済」という区分をもちいて国民国家をベースに議論を展開してしまっては誤解を生むだけだ。国単位で経済の強みや弱みを分析するという従来のマクロ経済学がいかに使い物にならないかは、ここ20年間ではっきりしているはず。貿易や財政に関するデータを用いても、僕らを取り囲む霧を晴らすことはできない。
鍵となるのは金融資本の潮流だ。金融化が世界を一新させた理由も、2008年金融崩壊が金融化に大ダメージを与えた結果、DNAですらない、RNAのほんの切れ端でさえもこれほどの打撃を僕らに浴びせることができるようになったその理由も、ここから読み取れる。コロナウイルスがこれほどひどい惨事をもたらしているのも、そもそも金融資本主義がコロナ以前にすでに深手を負っていたからなんだ。今日はこの文脈で話を進めたい。2008年に生じたある大きな出来事の発展型として2020年危機を捉えること。そもそも、2008年に起きた金融化の危機には決着がついていない―これを今日は示してみたいと思う。なるほど、金融市場は回復したかもしれない。今も金儲けは続いているかもしれない。でも、世界資本主義の要である金融化は、2008年という深手を完治できていない。僕の仮説が正しければ、コロナ以後の世界を理解したかったら―コロナ以後の世界について語りたがる人たちは本当に後を絶たないものだけど―まず2008年以後の世界を理解しない限り何も始まらない。
本題に移るとしよう。一昔前まで、お金は各国間を主に金融取引という形で行き来していた。各国経済の消費者内需は国内生産者が満たしていた。アメリカのような大国だけでなく、僕の母国ギリシャのような小国においても、今と比べてはるかに多くの生産物を国内消費者向けに生産していた。これに関する数値を参照すれば、一国の経済の状態を把握することができたわけだ。現代ではそういった手法はもはや通用しない。1980年代以降の世界では、中国やドイツのような国における問題はアメリカやギリシャにおける問題と密接に結びついている。「アメリカやギリシャ」という風に、ロバート、きみの輝ける母国、世界の覇権を握る超大国を、僕の故郷である破産小国と同列に扱うような言い方をしたけど、これには理由があるんだ。というのも、アメリカとギリシャには「赤字国家」という共通点がある。
ブレトンウッズ体制の終焉を資本主義の歴史における転機として位置づけたのにも理由がある。それ以前までは、金融家の活動は厳しく規制されており、通貨の循環(マネー・フロー)は実体経済の動向とつながりを保っていた。ところが1980年代前半にブレトンウッズ体制が終わり、資本規制が取っ払われると、金融工学による民間通貨の激流が巨額の貿易不均衡の主な原資となった。さきほど僕はアメリカを例に挙げた。それに、あなた方は現在アメリカからこのライブインタビューを見ている。というわけで、今しばらくアメリカに注意を向けてみたい。未来の歴史家たちは「アメリカの覇権はアメリカの貿易赤字の拡大に比例して強まった」という、1980年代に出てきた実に奇妙で重要な現象に焦点を当てるだろう。世界史上初めての出来事だからだ。これ以前は、帝国や経済大国や覇権国が黒字国から赤字国へと転落すると必ず権力の縮退が起きた。ところが、アメリカの場合はその反対のことが起きた。なぜだろう。
理由はこうだ。アメリカが貿易において黒字国から赤字国へと転落していくかたわらで、ウォール街は海外諸国の黒字を再循環(リサイクル)させる上で中心的な役割を担うようになった―主にドイツや日本からの黒字だが、最近では中国からの黒字もそこに加わっている。これらの国々は、アメリカへの純輸出によって利益を生む一方でその利益をウォール街経由で再循環させたわけだ。「非均斉動的平衡」(unbalanced dynamic equilibrium)とでも呼ぶべきこの実に興味深い状態を背景に、アメリカは商品と他国利益の両方で世界最大の輸入国となった。さらに、巨額のカネがウォール街へと流れ込んだ後にアメリカを含む各国への資金となって再び流れ出すという潮流が形成された―「金融化」と呼ばれる現象だ。ところが2008年に金融化は砂上の楼閣のごとく崩れ落ちてしまった。その理由はこうだ。金融化によって、持続不可能な量の民間通貨が発行された。砂上の楼閣のご多分に洩れず、この場合もまた増築を重ねてゆけばそのうち基盤が崩れ建物全体が瓦解する。連邦準備制度だけでなく、G20諸国の中央銀行が一致団結して2008年に金融市場を見事に再生(refloat)させたわけだが、ウォール街と金融化体制は世界の黒字を再循環する能力を失った。ブタ積みにされたカネを生産的な投資に変身させ、アメリカやイギリス、欧州各国やインド、そしてラテンアメリカ諸国で優良雇用を大規模に創出する力は、2008年以降失われたままだ。以上が僕の仮説だ。
この仮説を経験的証拠に照らし合わせて検証するのは別の機会に譲ることにしたい。ここでは2020年へと話を進めていこう。そのための準備として、さらにいくつか付言をしておく。まず、2008年金融崩壊以降、ウォール街をはじめ西洋諸国の金融市場では、先進国経済の(すなわちOECD加盟諸国の)二分化が起きている。これは実に面白い現象だ。一方には赤字諸国がある。赤字諸国は皆同じ運命を辿っている。負債バブルが生成されるかたわら、労働者階級は産業地帯の斜陽化を、指をくわえて見守るしかない。アメリカという強国であれ、ギリシャという弱小国であれ、それは変わらない。対外赤字を埋め合わせるためには、負債バブルを作るより他に道がないのだから。バブルはいつか当然破裂するわけだが、そうなると今度はアメリカ中西部からペロポネソス半島まで広範にわたって労働者が負債の奴隷となり、生活水準が下がる。他方の極には黒字諸国が存在するが、こちらは一国ごとに個性がある。例えば中国とドイツをみてほしい。どちらも巨額の対米貿易黒字を有している。中国の場合は欧州全体に対して、またドイツの場合はその他の欧州諸国に対して、やはり大きな貿易黒字がある。マクロ経済的にみると、中国においてもドイツにおいても労働者階級の所得と財産の抑圧がはっきりと見てとれる。特に中国ではこれが顕著だ。消費がGDPに占める割合は50%を割っており、労働者階級には勤務先地域における居住権すら認められておらず、福祉国家へのアクセスも限られており、生存をかけてひたすら貯蓄をするしかない状態に置かれ、仮に貯蓄に成功してもほとんど場合そこには雀の涙ほどの実質金利しかつかない。よって、中国では労働者階級の所得と財産の抑圧がある。ドイツも然りだ。だが、中国とドイツの間には重要な相違点がある。中国においては投資が活発だが、ドイツでは投資がほとんどされていない。ドイツ企業は投資を渋っているわけだ。さらに、特にこれはギリシャから見て重要な問題なのだが、ドイツ企業は自社商品への需要を確保する上で、ユーロ圏の諸外国―ギリシャ、スペイン、アイルランド、イタリア等々―で生成される信用(クレジット)バブルに依存している。
別の言い方をするならば、世界の情勢を「国家のぶつかり合い」として―アメリカ対中国、ドイツ対ギリシャという具合に―表現する人たちは、故意にか、無意識的にか、周りを混乱させてしまっている。今起きていることは、ドイツとギリシャのぶつかり合いでも、アメリカと中国のぶつかり合いでもない。ことの本質は、階級闘争の激化にあるからだ。つまり、真のぶつかり合いはドイツ国内で、アメリカ国内で、そしてギリシャ国内で、すなわち国民国家(nation states)の内部で起きている。世界金融の潮流は、支えきれないはずのものを支え、維持できないはずのものを、すなわち貿易不均衡と金融の流れの不均衡からなる非均斉の均衡(unbalanced equilibrium)を維持している。この文脈で先述の点を理解しない限り、金融も経済も政治も理解できない。僕が「ナショナリスト・インターナショナル」と呼ぶ現象も理解できない―ドナルド・トランプ、ブラジルのボルソナーロ、インドのモディ、そして欧州連合(EU)諸国の排外主義者たちからなる国際連合だ。2020年の出来事も、こうした文脈から出発しない限り理解できないだろう。
ご存知のとおり、ラリー・サマーズは一連の出来事を「長期停滞論」を使って説明しようとしたし、ジョーセフ・スティグリッツも重要な仕事をした。いずれも頭脳明晰な思想家だ。しかし、真に必要とされているのは、事態を世界的な視野で把握することではないか。僕の関心もここにある。考えてみると、味わい深い矛盾が立ち現れてくる。金融化からくる不均衡が深まる中、世界金融資本主義社会は世界全体を無理矢理均衡状態へともっていこうとしているが、そうした動きが各国の内部での動向と矛盾してしまっているわけだ。
詳しく説明しよう。2008年は金融部門のバブルがはじけた年だった。債務担保証券(CDO)やCDO2といった形で大量に刷られた民間通貨を支える余力がもはやこの地球にはないのだということがそのとき明らかになった。その後何が起きたのかと言えば、連邦準備制度とG20の中央諸銀行が先述のとおり金融部門を再生させた。類まれなる連帯感を示し、極少数の金融家のための社会主義(socialism for the very few financiers)を地で行く行動をとった―多数の人々から少数の人々へ、実体経済から金融部門へありったけの資金を移動し、金融部門を救済したのだ。これはしかし、がんの治療にコルチゾールを使うようなものだと思えてしまう。金融資本主義という患者ががんになったとき、僕らは流動性という名のコルチゾールをそこへ惜しみなく注入したわけだ。患者は一時的に元気になり、金融市場にも活力が戻った。同時に、金融部門の救済と再生は民衆に対する緊縮策の実施を意味してもいた。アメリカ中西部やアメリカ全土、イギリスや欧州大陸全土でもそうだったが、殺意あふれるトロイカにお尻を叩かれつつ緊縮策を誰よりも熱心に推し進めたのはギリシャだった。緊縮策の本質は「投資と購買力の縮小」であると考えていただいて良い。
民衆に対して緊縮策を実施し、結果として総需要の低下―すなわち民衆の投資と購買力の低下―が起こってしまえば、あとは企業に流動性を注入し続ける以外に制度維持の道はない。当局による資本移転と流動性の提供は金融家たちを救済したが、過剰な流動性の行き先を作るという課題が未解決だった。仮にあなたが金融家だとして、もし中央銀行からタダでお金を貰えたら、当然それを融資する必要を感じるだろう。金融家は借り手がつかない流動性を抱えるのがとにかく嫌いだからだ。さて、あなたはこのカネを一般の人たちには与えないだろう。緊縮策のおかげで人々の所得は下がっており、債務不履行のリスクが上がっているのだからね。よって、あなたは大企業への融資を好むようになる。アマゾンやフォルクスワーゲンやシーメンスのような大企業への融資だ。そこで、次はこのような大企業のCEOの身になって考えてみよう。中央銀行から(あるいは融資先を血眼になって探しているドイツ銀行やサンタンデール銀行のような商業銀行を経由して)たくさんのカネが流れ込んできた。問題はその使い道だ。例えば、自動車の生産への投資をするにしても、人々には自動車を買う力がない、あるいはあなたにとって利益になるような金額で自動車を買う力がない。しかし、あなたにはもっとずっと簡単で魅力的な選択肢がある。金融市場や株式市場へ足を運び、自社の株を買い戻せば良いのだ。そうすれば株価は一気に上がり、企業の価値も上がり、あなたは一攫千金を手に入れる―CEOや取締役のボーナスは株価によって決まるわけだからね。すると面白いことが起きる―実体経済が干上がるかたわらで金融市場が潤うという現象だ。
巨額の貯蓄と流動性が一方にあり、固定資本への投資の躊躇(相対的な貸し渋り)が他方にあるわけだが、このような乖離が起きたのは資本主義の歴史においても初めてのことだ。米ドル建てで数兆ドルにものぼる負債がマイナス金利の領域に突入している理由もここにある。デフレ圧力がかかり、世界各地の政治に異変が起きているのもこのためだ。政治にとってデフレは(インフレとちがって)毒だからね。(ちなみに、わき道にそれるがドイツの友人たちのために一言付け加えておくと、「ハイパーインフレーションがナチズムの台頭の原因だった」という誤まった歴史認識はいまだにドイツにおいて根強い。言うまでもなく、本当の原因はデフレだ。1930年にハインリヒ・ブリューニングが厳格な緊縮策を実施し、物価が下降した結果、デフレ圧力が生まれたのだ)。
パンデミックが将来に及ぼす影響を考えるにあたって鍵となる逆説(パラドクス)を二つ見てきた。一つ目の逆説はついさっき描写した現状と関連している。さて、経済学を学ぶ人たちはみな次のように教わるものだ―「正常に機能している資本主義において均衡(equilibrium)が成立するためには、ある実質金利を表す数字が必要となる。貯蓄と投資の均衡と銀行業部門における均衡を同時に達成するような実質金利を表す数字だ」とね。学生時代に経済学を学ばずに済んだ幸運な視聴者の皆様のために、もう少しこれについて説明させてほしい。貯蓄とは通貨供給量のことであり、投資とは通貨需要のことだ。例えば銀行の金庫や家庭の箪笥の奥に積み上げられた札束は、適切な金利でそれを運用してくれる人を求めてうずいている。新たな収益、新たな事業、例えば新しいレストランでも何でも良い、とにかくそういう形で運用してもらいたいとね。貯蓄が通貨供給量であると言ったのはこのためだ。そこで今度は、お金はないがアイデアはもっている起業家を考えてみよう。起業家は貯蓄主に向けて「お金をください。しっかりと活用します。利益も出しますし、あなたへの金利も弾みますよ」と言うだろう。これこそ通貨を求めている人、すなわち通貨への需要を生み出す人だ。金利は通貨の価格、すなわち投資の価格に相当する。さて、均衡を得るためには、貯蓄と投資の間で均衡を達成するような金利が存在する必要がある。貯蓄が投資を上回るとデフレ圧力が生じ、反対に貯蓄が投資を下回るとインフレ圧力が生じるからだ。繰り返すが、資本主義が正常に機能するためには、貯蓄と投資の均衡を達成するような金利が必要となる。2020年以前、すなわち2008年から現在までの間は、そのような金利は存在しなかった。あるいは、そのような金利を示す数字が存在しなかったと言ってもよい。マイナス金利や量的緩和が出てきている理由もここにある。とはいえ、貯蓄と投資の均衡を達成するだけでは不十分だ。資本主義においては、企業資本を含む金融制度における楽観度や展望は金利によって決まるからだ。例えば、金利がマイナスになった場合、各種年金基金が壊滅的な打撃を受けるだろう。年金基金の崩壊はそのまま金融市場の瓦解へとつながるだろう。僕の仮説では、2008年以降、すなわち2008年金融崩壊以降は(1)貯蓄と投資の均衡を達成しつつ(2)金融部門の崩壊を防ぐような金利を表す数字は存在しなかった。以上が第一の逆説、第一の謎、第一の矛盾だ。ちなみに、ここまではまだパンデミック以前の話だ。
今度は2020年と2008年の相違点へと話を進めよう。2008年に[訳注:おそらく「2020年に」の誤り]破裂したバブルは、銀行家のバブルではなく、企業債務のバブルだった。先ほどフォルクスワーゲンを例に挙げて説明したとおり(ちなみにこれはフォルクスワーゲンを名指しで攻撃しているわけではなく、ただ単にふと浮かんだから例としてフォルクスワーゲンを使っているだけだという点はご留意いただきたい)、企業は中央銀行からの通貨にすぐに依存した。流動性のおかげで負債の繰り越しが可能となり、低利益(場合によっては損益)に陥っても企業自体が存続できるようになっていた。また、この流動性は株価の上昇を可能にもし、場合によっては中央銀行による絶え間なき通貨発行の恩恵を受けていわば賃料のような収益があがることもあった。こうして、コロナウイルスに至るまでの12年間で企業部門全体に巨大なバブルが形成されたわけだ。
2008年には銀行業部門におけるバブルが破裂した―今もなお記憶に新しい出来事だ。対して、2020年に至るとバブルは世界の企業資本主義社会の隅々にまで広がっていた。コロナウイルスの重要性もこれでわかるだろう―超巨大なバブルを弾く針のような役割を担ったわけだからね。このバブルは2008年のそれよりもはるかに大きいが、同時にこれは2008年のバブル崩壊なくしてはありえないようなバブルでもあった。2008年への対処として、中央諸銀行や各当局が企業部門全体へとバブルを広げることで[金融市場の]再生を図ったわけなのだから。第二の逆説あるいは矛盾―一筋縄ではいかない逆説―もここにある。(繰り返すが、第一の逆説は「貯蓄を投資に変えられるくらい低いが、年金基金を壊滅させるほどは低くない実質金利は存在しなかった」というものだ)。
第二の逆説は次のように表現できる。まず、金融市場を12年間潤してきた結果、資産価格が空前絶後の高さとなっている。例えば、最近の3ヶ月間をよく見てほしい。あたかも資本主義が仮死状態に突入したかのような、誰かが「一時停止」ボタンを押したかのような状態だ。需要も供給もなくなり、人々は待機を強制され、所得は下がっており、生産量も下がっているが、それにも関わらず金融市場は万事快調ときている。その理由はというと、公共通貨(public money)が発行されて金融市場に注入されたからだ。こうした公共通貨は、「量的緩和」と呼ばれるものも含め、資産価格を人為的に高く保ってきた。人為的に高い資産価格は「不平等」という名のコインの裏面にすぎない。つまり、資産価格の人為的な上昇と、大半の国々で大半の人々が日々の生活に困窮している現状とはいずれも共通の原因から生じているわけだ。人々は魂を削られるような仕事で毎日働き、労働時間もとても長く、しかも仕事場での努力と社会的ステータスの向上との間にはもはや何のつながりも残っていない。アメリカンドリームの終幕と言っても良い。少なくともアメリカやイギリス、ギリシャやドイツにおける標準的な(median)国民は、いくら一生懸命に働いても絶対に出世することができない。資産価格の高騰と不平等の拡大とは表裏一体だ。
ルーズヴェルト式のニューディール政策は、地球規模でのグリーン・ニューディール政策も含め、貯蓄を投資へと徐々に誘導し、社会や地球環境が必要としている優良な雇用や「エコな移行」(green transition)を創出すべきだ。しかしながら、僕には一つ気にかかっていることがある―単なる勘違いだと良いのだけれど。説明させてほしい。まず、人類の生存には地球規模でのルーズヴェルト式のニューディール政策が必要不可欠だ。このような政策は資産価格を相対的に下げるだろう。現状では、実体経済とは切り離されたところで金融市場が再生(refloat)されたため、資産価格が人為的に高く保たれている。ところが、話はこれほど単純ではない。既存の企業の多くは融資の金利の低さのおかげで生き延びている。低金利のローンを得るためには担保が必要となるが、(中央銀行からの保証がついた)高い資産価格は担保の価値を保つ上で欠かせない。融資の波が企業部門に押し寄せているのも、ひとえにこうした担保の存在のおかげなのだ。まさに「動いて災難、動かなくても災難」とは言い得て妙だろう。資産価格を下げないと、優良な雇用の創出も、不平等の是正も、地球や社会の救済も、ファシストその他の連中による政界汚染の阻止もかなわない。しかし、もし実際に資産価格を下げた場合、今度は企業が軒並み倒産してしまう。
以上の二つの逆説は、世界資本主義のもつ様々な矛盾の源泉となっている。僕はそう思う。では、さらにここに現代の政治や技術革新の話を追加してみようか。昨今では、新型コロナ感染に対する恐怖は人間の心を変え、IT系の大企業によるアプリの拡大が受け入れられやすくなってきている。こうした大企業は各国政府としっかり共謀しており、新商品[すなわち新しいアプリ]の開発と拡散をとおして僕らの生態データや地理データ(そしてそれらの組み合わせ)を集めている。そこから出てくるアルゴリズムは、たしかにパンデミックの最中では役に立つもので、体温や血圧を測ったり、各種医療検査の補助を担ったり、ショッピングモールやスポーツ観戦などに出かけた場合の感染リスクを教えてくれたりもするはずだ。しかし、僕に言わせればこれはオーウェルの『1984年』そのままの世界だ。病に対する監視システムにはその他の心の動きを監視する力も当然あり、偉大なリーダーの演説や職場の上司の小話などを聞いたときの僕らの血圧を測ったりもできる。ソ連国家保安委員会(KGB)など比較の対象にすらならないほどの暗い可能性が僕らを待ち構えているわけだ。
さらに言わせてもらうと、僕の(あるいは「僕らの」と言った方がいいかな)友人や同志の中には、進歩主義に忠実で、僕なんかよりも楽観的な人たちもいる。今回のロックダウンは、地域レベルでの連帯を強め(これ自体は良いことだ)、政府のもつ力を回復した(あるいは、少なくとも政府が元々持っていた力の強さが国民に明らかになった)として、彼らは喜んでいる。たしかに、政府には自宅待機を国民に命じたり、経済の各部門を丸ごと国有化したりする力がある―新自由主義体制においてすらもね。しかし、先ほど論じた危機や矛盾の文脈で、企業資本主義が分裂しつつも猛威をふるう現状において国家権力が増大する様子を見ていると、僕は心配になる。なぜかといえば、そもそも国家権力は民衆の力(the power of the demos)と必ずしも同じものではない。ドナルド・トランプの力、ヒトラーやムッソリーニの力、あるいはモディやボルソナーロの力にだってなりえるからだ。
質疑応答もあるわけだし、そろそろまとめようか。現時点での僕の見解はこうだ。資本主義には大きな変化が起きている。金融化の隆盛、そして2008年における金融化の崩壊は、マルクスには想像できなかったような新しい矛盾をたくさん生み出した。ところが、世界各国の進歩派勢力は国際的な進歩派運動をまったく組織できていない―国家権力を駆使して経済を再編成し、「超少数のための社会主義」(social for the very, very, very few)という現状を打破するための運動がないわけだ。このような政治組織の不在、いわば「現代のフランクリン・ルーズヴェルト」の不在、金融界の悪霊(genie)をランプに戻し、(金融化の危機とは別途に)資本主義を蝕んでいる新型テクノロジーの所有権を再考するような政治運動の不在… こうした不在のせいで、僕らは岐路に立たされている。人類の未来をかけた選択を迫られている。一方にはディストピアが待ち受けている。2008年や2020年[の危機を受けて]衰退する資本主義が産業封建主義を生み、少数の人たちが高い壁や電気フェンスで囲われた領地(ゲーテッド・コミュニティー)に立てこもるかたわら、外の世界にはジョン・カーペンター監督の『ニューヨーク1997』のような殺伐とした風景が広がる。他方には、理性と連帯を組み合わせたポスト資本主義社会が待っている。
ジョンソン 力強いスピーチをありがとうございます。とても射程範囲が広く、歴史に深く根ざした論考ですね。特に私にとって印象深かったのは、社会運動が広がり、国家権力が拡大し、民間団体を次々と国有化できても、国家権力は必ずしも民衆の力と同じではなく、必ずしも民意を広く代表しているわけではない、というあなたの指摘です。そこで質問なのですが、民衆の力を阻む勢力を打破するためには、どのような改革が必要だとお考えですか。
バルファキス それこそまさに究極の問いだね。一年前の僕ならば、ニューディール派のような答え方をしただろう。つまり、ルーズヴェルト式のニューディール政策の理念を蘇らせ、民間資金を公共の目的に向けて動員させるべきだ、と説いただろう。僕は今でもこうした考えを持っているけれど、今回のパンデミックの広がりに対抗するためには、もはやこれだけでは不十分だ。必要条件ではあるが、十分条件ではない、と言い換えても良い。仮に[ニューディール政策を]実施できたとしても[問題が残るからだ]。例えば、ブレトンウッズ体制を思い出してほしい。ブレトンウッズ体制には確かに不備も多かったが、金融界の規制と不平等の是正という観点からは実に腰の据わった実験だった。それでもなお、企業に従事する人々[=労働者]と企業を所有する人々[=資本家]の分離をベースに資本を蓄積する制度[=資本主義]は、株式市場での取引や金融化のおかげで爆発的な力を得た。仮にフランクリン・ルーズヴェルトとジョン・メイナード・ケインズとイエス・キリストとお釈迦様が一同に会し、天使たちやしもべたちと一緒に力を合わせて新しい世界制度を設計したとしても、それは民間金融と株式市場の組み合わせからなるゲームによって転覆させられ、1971年8月15日のような事態が再び起きるだけだろう(ブレトンウッズ体制終焉の日、制度の分裂を受けてリチャード・ニクソンがやむを得ずブレトンウッズ体制に終止符を打った日だ)。
優れた目的のために既存の流動性を役立てるのはもちろん大切だけど、それだけでは不十分。では、十分条件は何なのか。所得のみならず所有権も再分配すること―これこそが答えだと思う。考えれば考えるほど、僕は歴史上のある興味深い場面へと立ち返っている自分に気づく。場所はロンドン、時は1599年、ちょうどウィリアム・シェイクスピアが『ハムレット』を書き終えていた頃、「東インド会社」という名の史上初の株式会社が創設された。匿名かつ流動的であり、しかも銀と同じように売買が可能な株式に基づいた会社だ。これは実に衝撃的な出来事だった。会社が何をし、そこで誰が働いており、世間や地球環境に、また搾取や取引の相手に会社がどのような影響を与えているのか等々の要素から完全に独立したところで、しかも匿名かつ流動的かつ売買可能な所有形態に基づく巨大企業を作ろうと決めたわけだからね。
僕は最近、「図書カードのような株式」というアイデアに魅力を感じている。みなさんはどう思われるだろうか。変な提案だと感じるだろうか。学校や大学、つまりニューヨーク大学やスタンフォード大学、あるいは地域のコミュニティ・カレッジなどに入学した場合、あなたは図書カードを渡される。それはあなたのものとなり、あなたはそれを自由に使うことができる。ただし、他の人にそれを売ったり貸したりすることはできない。図書カードのおかげで、あなたは知識にアクセスできるようになる。同じように、「一人一票一株」の会社を作ってみたらどうだろうか。ボーナスを使って資本を蓄積することもできるようにする。配当は同じでも、ボーナスは人によって異なる。ボーナスの金額は同僚からの評価によって決定される。専用の投票システムを作ればできることさ。退社した場合は、今まで使っていた図書カードを別の新しい図書カードと取り替える。転学するのと同じ感覚で転職をするわけだ。こうなれば、株式市場はおしまいだ。
今年の9月に発売予定の新刊があるんだけど、その執筆の真っ最中だから、こうやってその本からのアイデアについてつい熱っぽく語ってしまった。ポスト資本主義社会を構想するという本なんだ。そこでも、考えれば考えるほど、市場を機能させるためには資本主義を終わらせる必要があるという結論にたどり着く。どういう意味かと言うと、私的所有(private property)[訳注:おそらく「民間銀行業」の誤り]と株式市場(stock exchange)を廃止すべきだということだ。企業はすべて組合に変身し、「一人一株一票」が原則となり、民間銀行業も廃止となる。そもそも、民間銀行業なんて必要ないだろう? 国民は連邦準備制度で直接、銀行口座を開設すれば良い。そもそもなぜ仲介人が必要なのか。
例えば、量的緩和という政策がいかに馬鹿げているかを考えてみてほしい。パンデミックの渦中で経済がボロボロにされているというのに、連邦準備制度はこともあろうにバンク・オブ・アメリカやシティバンクに融資をしている。そうすればバンカメやシティが国民や企業にそのカネを渡して生産的に使ってくれるだろうという期待を込めてさ。でも、中央銀行と市場や社会の間に民間銀行を挟んだ途端、かかる融資は即座に消えてなくなるか、あるいはとんでもない使われ方をする。銀行家には鉄のルールがあるからね―「お金を必要としていたり、お金を生産的に使えたりするような人には決して融資をしないこと。代わりに、投機家にそれを融資すること」というルールだ。宇宙人が地球の株式市場を見たらびっくり仰天するだろうね! 天才集団が必死になって紙の束を(あるいは電子の束を)右から左へ手渡している光景。金融工学などと言うけど、何も発明できていない。ポール・ボルカーの名言を思い出してほしい―「長年この業界を見てきて思うのだが、新式の負債を除いて他に何一つ発明品は生まれていない」。
そこで想像してみてほしい。僕ら一人ひとりに個別の連邦準備制度口座が与えられる。普通預金口座と貯蓄口座に分けても良いだろう。そして、今回のような危機が起きた場合には、連邦準備制度が直接個々の口座に追加でお金を打ち込む。そうすれば、パンデミックの渦中でも需要が潰れずに済む。すばらしい仕組みだろう! 銀行家に巨額の手数料を支払う必要などどこにもない。それに、民間銀行業と証券・株式市場の組み合わせを廃止にすれば、企業は「一人一株」の原則に従って民主的な意思決定をする組織へと様変わりする。人間には自分が属する組織に関わるものごとを合理的に決定する能力があるし、その能力は驚くほど高い。企業でも地元の政治集会でもそれは変わらない。経済の民主化だ―すてきなアイデアだろう? 断っておくが、市場をやめろと言っているのではない。株式市場と民間銀行業をやめろと言っているのだ。何度も言うが、僕の仮説はこうだ―「市場を正常に機能させるためには、資本主義を終わらせるしかない」。
ジョンソン 実に鮮やかな逆説ですね! ところで、セネガルの視聴者から質問が来ています。「こうした逆説について、また先進国においてかかる逆説がもつ力についてはよくわかりました。そこで、今度はセネガルのような発展途上国の文脈でこうした逆説がどう展開されていくものなのかについてお話いただけますか」。
バルファキス まず、すばらしい質問をしていただけたことに心から感謝したい。これは重要な問題だからね。先進国経済とセネガルのような発展途上国経済の間には、重要かつ「有毒な」関係が常にあり続けてきた。思い出してほしい。1971年にブレトンウッズ体制が崩壊したとき、金融化に端を発する第一世界債務危機(first debt crisis)の試練を味わったのは発展途上諸国だった。[訳注:第三世界債務危機をもじった皮肉まじりの記述だと思われるが、そうでない可能性もある]。国際通貨基金(IMF)が推進する「構造調整プログラム」を思い出してほしい。これも最初はセネガルやケニヤといった国々において実施され、完璧に洗練された後にトロイカ主導のプログラムとしてギリシャやアイルランドなどの欧州諸国に持ち込まれたのだ。この問題に関しては僕らの国々はみな相互につながっている。
さきほどのスピーチで論じた「現代の難題」とセネガルの情勢の関係へと話を進めよう。連邦準備制度が諸企業を救済するために刷った巨額の米ドルこそが諸悪の根源だと僕はみている。あふれかえるカネは2009年から2010年経た後で発展途上国に大波となって押し寄せた。欧米よりも高いリターンが期待できたからだ。こうしてセネガルをはじめとする国々でバブルが形成された。各国の寡頭者たち(oligarchs)は、日本銀行や連邦準備制度、イングランド銀行等々が実施した量的緩和政策が自国の債務の増加という形で流れ込んでくると、このカネを悪用した。するとセネガルその他の国々では人為的な富(まがい物の富)が形成された。これはセネガルの民衆に対する寡頭者の権力を強めた。後ほどウォール街やシティ・オブ・ロンドンなどでパニックが起きると、セネガルを潤していたカネもみるみるうちにセネガルから流出してゆき、セネガルをはじめとする発展途上諸国ではバブルがはじけた。すると待ってましたとばかりにIMFが参上し、水道局や電力供給網の没収、そして学校や病院の閉鎖を要求する。繰り返すが、これは僕らみんなの問題だ。「アメリカ対中国」「欧州対セネガル」といった構図の誤りを指摘したのもそのためだ。本当は、各国の内部で階級闘争が繰り広げられているのだ。「国境なき寡頭階級」は実にすばらしい結束をみせている。セネガルの寡頭者たちは、僕の祖国ギリシャの寡頭者たちと実にうまくやっているよ。アメリカやドイツの寡頭者たちともね。全人類がこれほど強く結束できたらどれほど良いだろうかと思わされるほどすばらしい結束力を寡頭者たちは体現している。
ジョンソン 次はさきほどの図書カードのアイデアに関連した質問です。「ドイツにおけるデフレと政局の関係について、歴史的背景や出典を教えていただけますか」とのことです。
バルファキス 出典はいくつかあるが、ここではあえて自分の作品を挙げることをお許し願いたい。And the Weak Suffer What They Must?(『弱者は苦しみを甘んじて受ける?』)という、導入部でも紹介していただいた作品だ。この本の題名はトゥキディデス[訳注:古代ギリシアの歴史家]から引用した。[古代ギリシアで]強力なアテナイ人たちが弱小国を蹂躙していたとき、弱小国側の代表者はたまらずこう言い放った―「あなたたちの行動はおかしい。ただ強いからといって、あなたたちに私たちを踏みにじる権利があるわけではない。あなたもいずれは弱者に変わる瞬間がくる。そのとき、あなたは今の行動を後悔するはずだ」とね。それに対して、アテナイの軍曹は振り向きざまにこう答えた―「強者は思うがままに行動し、弱者は苦しみを甘んじて受ける」。本書の題名はここに由来するわけだが、この本で僕は欧州連合(EU)の仕組みやEUにおけるドイツの役割を、アメリカの「世界計画」(グローバル・プラン)―ブレトンウッズ体制のことだ―という広い文脈から解説した。
ジョンソン アメリカとヨーロッパの対比に関する質問が来ています。「ブレトンウッズ体制や金本位制があった頃には何かしらの制約が存在していたわけですが、こうした制度の崩壊以後はすべてが宙に浮いたままです。とはいえ、株式の買い戻しといった現象はヨーロッパよりもアメリカにおいて顕著であるように思えます。ヨーロッパの方がアメリカよりも健全な構造を保っているとあなたはお考えですか。それとも、アメリカの機能不全は世界経済という名の船をまるごと転覆させようとしているのでしょうか」。
バルファキス 2008年に欧州人が陥っていた自信過剰を思い出してほしい。「今回の危機はアメリカの問題だ。あるいは、アングロ圏(英語圏)の問題だ! ドイツやギリシャ、フランスやイタリアの国民は賢明であり、金融化にすべてを賭けるような愚かなまねはしないのだから」。こんな調子で、欧州大陸の人々は2008年に温泉気分を満喫していたわけだ。しかしそれもソシエテ・ジェネラル、BNPパリバ、ファイナンスバンク、コメルツ銀行、そしてドイツ銀行等々の帳簿の中身が表に出るまでの話だった。ドイツやフランスの銀行、そしてイタリアやスペインの一部の銀行が、ウォール街など比べ物にならないくらい実に劣悪な慣習にどっぷり浸かっていたということが発覚したのだからね。さきほどの質問に対しても、同じようなことが言えると思う。つまり、欧州企業はアップル社のようなアメリカ企業とさして変わらない。例えば、巨額の貯蓄を抱えているという点でね。実に馬鹿げた話だろう―そもそも企業に貯蓄をする必要など一切ないはずなのだから!
僕がまだ若かった頃は、世帯が貯蓄し企業が投資目的で借金をできるからこそ資本主義はすばらしいのだと教わったものだ。アップル社には、アイルランドに2500億ドルもの貯蓄を置いておく利点などないだろう? 単なるカネの無駄だ。不合理とはまさにこのこと。同時に、こうした企業は連邦準備制度からひたすら借金をしている。タダだからさ。そして、それを使って今度は自社株を買い戻している。こうして、数兆ドルという次元の評価を得たりする。欧州でも話はまったく一緒だ。一つ違いがあるとすれば、欧州はアメリカよりもはるかに愚かで下手な仕方で2008年金融危機に対処した。対処に必要な機関が欧州には欠けているからだ。米国財務省もなければ、短期国債に対応する制度もない。「ユーロ債券」もない。しかも、いまだにユーロ債券への反対の声が優勢と来ている。狂気という他ない状況だ。狂気というよりは、ここでもまた「階級闘争」と言った方が正確だ。これについては、また別の機会に詳しく話したいと思う。とにかく、アメリカに比べてはるかに愚かで無能な管理体制が欧州にはある。さて、アメリカの人々はアメリカの政治に心底幻滅しているだろうから、欧州がアメリカよりもひどい状態にあると言われても納得がいかないかもしれない。誓って言うが、欧州の方がひどいし、アメリカよりもひどい政治というものもたしかに存在する。欧州の無能さは、さらにまた別の「逆転」をもたらしている。最近ふとデータを漁っていて気がついたのだけど、2007年(金融崩壊の前年)に欧州企業はアメリカ企業よりも1000億ドルほど高い収益(純益)を誇っていた。ところが、今では立場がまったく逆転しており、遅れているのは欧州企業の方だ。それでも、欧州企業のやっていることはアメリカ企業と大して変わらない。
ジョンソン INET所長の私にとって嬉しい質問もいくつか来ています。喜んで読み上げさせていただきます。「バルファキスさんに、経済学についての見解を語っていただきたい。あなたが展開するビジョンや分析に適うような理論や研究分野は、現代の経済学において存在するのでしょうか。もし存在しない場合、中期的にはどのような[理論や分野がこの先]考えられるでしょうか」。もう一つ質問を読みます。「有力な進歩派政治運動の不在を指摘されましたが、そもそもポスト資本主義に関する対話をするだけの力が[私たちの社会には]あるのでしょうか。もしある場合、こうした対話を一般市民に奨励する上で、経済学者たちや彼らの《政界の側近たち》(their political aides)には何ができるのでしょうか。今に至るまで私たちが信じ続けてきた迷信としてのイデオロギーを打破するにはどうすればよいのか教えてください」。
バルファキス 政治に関してお話した後で、経済学へと歩を進めたいと思う。今こそ世界政治の舞台に切り込むチャンスだと僕は考えている。だからこそ「プログレッシブ・インターナショナル」という世界政治運動を[2020年7月現在]立ち上げているところだ。それは世界レベルの視野で思考しつつ地域レベルで活動家として行動を起こす政治運動だが、特に「活動家として」という部分を強調したい。
一例として、3月にクリス・スモールズの一件を思ってみてほしい。スモールズはニュージャージー州のアマゾン倉庫の不潔な労働環境に抗議してストライキを組織していたが、たったそれだけのことでアマゾン社から誹謗中傷される羽目になった。スモールズをクビにしただけでなく、アマゾン社の取締役会はスモールズをどう中傷し、どうやってメディアでつるし上げようかという戦略を練る議論を長時間行った。世界で一番裕福な企業がこんなことをしたのだ。そこで、仮に世界的な社会運動がこのとき存在したとしよう。それを仮にプログレッシブ・インターナショナル(PI)を呼ぼう。(ちなみに、PIは2018年11月にサンダース・インスティチュートと欧州民主主義運動2025(DiEM25)によってアメリカのバーモント州で共同創設された。2020年9月には、アイスランドのカトリーン・ヤコブスドッティル首相の後援を受けつつ、レイキャヴィークでさらに運動を発展させる予定だ)。そして、仮にPIが3月の時点で十分に機能していたとしよう。その場合、僕らはアマゾン社に対して世界規模でストライキを計画することができる。ボイコットでも良い。日付を決めて、その一日だけは世界中の人々がみんなアマゾン社のウェブサイトにアクセスしないことにする。もしこのようなボイコットが国際規模で成功すれば、クリス・スモールズは解雇されなかっただろうし、僕らもニュージャージー州のたった一つの倉庫のたった一人の労働者のために世界的な連帯を示すことができただろう。これをさらに毎日続けたと仮定してほしい。今日はナイジェリア、明日はインド、明後日は中国、また別の日は香港、次はギリシャ、といった具合に運動を続けていく。
僕の考えでは、これこそ今必要とされているものなんだ。新しい経済思想の体系など必要ない。昔は、僕も新しい経済思想の体系を使って既存のパラダイムを乗り越えようなどと考えたこともあったけれど、今はもうそういうことは信じていない。むしろありとあらゆる思想体系を学び、折衷主義者(an eclectic)となってすべての体系から学べるだけ学ぶ方が良い。例えば、僕はマルクスから多くのことを学んだ。マルクスの労働価値論や景気循環論なくしては資本主義を理解するのも不可能だ。彼は景気や収益率や失業率などの変動を階級闘争と組み合わせてビジネスサイクルを論じた初めての思想家だ。また、当然ながらジョン・メイナード・ケインズからも僕は多くのことを学んだ。ケインズなくしては金融化を理解するのも不可能だ。ミンスキーからも多くのことを学んだし、ハイエクのような政敵から学んだことも多い。ハイエクは価格を、ものごとを調整する信号(シグナル)として捉え、優れた洞察や理解を提示してみせた。もちろんこれはアダム・スミスに由来する考えだが、ハイエクはこれを実にうまく発展させた。繰り返すが、ありとあらゆる経済思想に触れることこそが大切だと僕は思っている。そもそも、資本主義は調和の取れた単独の経済思想体系でとらえられるようなものではない。なぜかといえば、資本は無秩序で自己矛盾を生むような存在だからだ。数理的に言い換えるならば、資本主義社会の浮き沈みを正確に表現できるような数式(解のある数式)は存在しない。だからこそ、哲学者の例に倣って僕らも折衷主義者になるべきなんだ。イマニュエル・カントやデイヴィッド・ヒュームのような個別の思想家に忠実であるうちは、僕らは優れた哲学者にはなれない。渓谷を飛び回るミツバチのように、谷のそこかしこに咲き誇る花からそれぞれ少しずつ汁を集めて、自分のオリジナルの蜜を作るのが本筋だ。
ジョンソン そろそろお開きの時間が近づいてきましたが、最後に一つだけ、グリーン・エネルギーに関する質問をさせてください。「緊縮政策や長期的不況を受けて、また総需要の不足を受けて、なお《グリーン・ケインジアニズム》(緑のケインズ主義)とでも呼べるもの、すなわち経済をより強固にアップグレードしつつ環境問題も解決できるような財政政策は可能なのでしょうか」。この質問者は欧州を念頭に置いているようですが、世界全体にも当てはまる質問だと思います。
バルファキス 答えはもちろん「Yes!」だ。僕自身も最近では欧州議会選挙でグリーン・ニューディール政策を公約に掲げて戦ったわけだからね。ただし、ここでも先ほど言ったことを忘れないでほしい―2008年以降巨額の貯蓄と少額の投資の間に乖離が生じてしまっているという現状をね。僕らがすべきことは単純で、貯蓄を使って投資をすれば良い。たったそれだけのことなのだ。もちろんこれはフランクリン・ルーズヴェルトの元祖ニューディール政策の考え方でもある。公共金融を介して余剰資金を投資に変えること。僕らがすべきことはこれであり、しかもこれは今すぐ実行できる。難しいところなど一つもない。金融界を救済するために中央諸銀行が一致団結したあのときのように、今度は世界各国の財務省が世界銀行と共に一致団結して公共金融商品を開発したとしよう―例えば、グリーン債券を社会的に発行したとしよう。あとは中央諸銀行が一度だけ(たった一度だけでいい!)声明を発表する。声明の内容はこうだ。「必要に応じて、グリーン債券は中央銀行が買い取ります」とね。そうすれば金利を低く保つことができるようになる。こうして、グリーン・エネルギーに投資するための巨額の資金が捻出される。技術的には何も難しいところはない。通貨を発行しろとすら言っていない。既存の貯蓄を公共の善のために使えと言っているだけなのだから。だから、これは十分実行可能なアイデアだ。ただし、誰がこれを実行に移すのかという問題は残っている。ルーズヴェルトはもうとうに亡くなっている。それに、僕らは昨年の欧州議会選挙では残念ながら議席を獲得できなかった。敗因の一つに、資金不足がある。競争相手は銀行部門から支援を受けつつ力でねじ伏せてくる。銀行部門は僕らが提唱するような政策に全力で反対してるからね。グリーン・エネルギーなどなくても、銀行部門は十分に潤っているからだ。金融化や負債の無期限繰り越しを、中央銀行使っていつまでも再生させ続けること―銀行部門にとってはこれほど都合の良いものはないが、地球にとっては最悪の状態だ。
ジョンソン 本日は広く深いお話を本当にありがとうございました。身につまされるような、目を背けたくなるような現実が提示された場面もありましたが、より健全な未来像を作るための原動力にさせていただきたいと思います。
バルファキス こちらこそ、色々と話せて良かったよ。ありがとう。
[訳者より:インタビューは以上ですが、いかがでしたか? 訳者や地方出版社を応援したいと思っていただけた方は、今回のインタビューの加筆修正版を含むバルファキスの和訳最新作『世界牛魔人―グローバルミノタウロス:米国、欧州、そして世界経済のゆくえ』をぜひご購入ください。読者の皆様からのご支援が私たち作り手にとって何よりの励みになります。どうぞよろしくお願い申し上げます。]
原典 | Original interview: https://www.youtube.com/watch?v=wwfM3IKaZgw
著者・訳者から許可のない転載を禁じます。Translation Copyright © 2021 Kenji Hayakawa
0 件のコメント:
コメントを投稿