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NAMs出版プロジェクト: 経済原論131~2頁、再生産表式関連
本書「第三章 資本主義的生産の進展における一般的利潤率の傾向的低下の法則」に『資本論第三部』から以下の引用がある。
《直接的な搾取の諸条件とこの搾取の実現の諸条件とは同じではない。それらは時間的および空間的に一致しないだけでなく、概念的にも一致しない。一方はただ社会の生産力によって制限されているだけであり、他方は、さまざまな生産部門間の均衡関係によって、また社会の消費力によって制限されている。》3:15:1
かつてカレツキも上を引用して、《「マルクスは、明らかに、資本主義の動態に対する有効需要の影響を深く認識していた」としつつも、「彼は、彼の再生産表式によって叙述されている過程を、有効需要の問題の帰結として資本主義に内在する矛盾という観点から体系的に吟味することをしなかった」と、マルクスにおける『資本論』第3巻の「剰余価値の実現」の問題=「有効需要の問題」と第2巻の再生産表式論との関連の未展開を批判する。》
http://www.unotheory.org/news_II_8
栗田康之 『カレツキの資本主義経済論―マルクスおよび宇野理論との関連で― 』
参照:
Michal Kalecki "The Marxian equations of reproduction and modern economics"1968
(カレツキ「マルクスの再生産の方程式と近代経済学」未邦訳)
カレツキの場合は『資本論』第2巻が重要な意味を持つ。信用貨幣論が強硬論と繋がる前段階に貨幣の秘密があるからだ。
簡単に言えば、カレツキはマルクス再生産表式の二部門のうちの一部門をさらに二つ
にわけることで有効需要の概念をケインズに先駆けて定式化した。
(本書では第二巻に関しては最後に必要最小限の要約が付与されている。)
カレツキはこうも言っている。
《投資は, 支出としてみると,繁栄の源泉であり,投資の増加は景気を好転させ,投資を刺激して,さらにそれを増大せしめる.しかし投資は同時に,資本設備の増加であり,したがって,生れたときから,この設備の旧式のものと競争する.投資の悲劇はそれが有用であるという理由から恐慌を生ぜしめる点にある.多くの人たちは,この理論をたしかにパラドクシカルと考えるであろう.しかしパラドクシカルなのは,理論ではない,その主題〜資本主義経済〜そのものである.》
(Essays in the Theory of Economic Fluctuations pp189-9,1939
1937版と同じ最終部、1968年新評論社版あとがきに部分引用。入手困難だが1944年版の邦訳あり)
宇野の『経済原論』岩波文庫208-9頁にはこうある。
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
資本論全体の認識として宇野弘蔵もさすがと思わせる。ただしカレツキは国家の責任をより自覚していた。本書で疑問に思うのは以下の国債理解だ。
以下「第五章 利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」より
《架空資本の場合には、資本価値の所有からも切り離され、たんなる貨幣請求権にまで切り縮められてしまうのです。したがって、ここでは、「資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せ」てしまい、現実の産業や商業とかかわりなく、「投資」そのものが収益を生み出すのだという観念がますます確固としたものになります。このことは、次にみる国債において明瞭にみてとることができるでしょう。
国債
……例として……国債……をとって見よう。国家は自分の債権者たちに、彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。…》
ここでは唯物論がマクロ経済理解の妨げになってしまっている。
総資本という言葉は国家とつながることは自明なのにだ。
とはいえ本書が依拠しているという桜井書店版『資本論』の刊行が待たれる。
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