2025年4月21日月曜日

love and theft: 大日本報徳社~二宮 尊徳(1787-1856)とその弟子達~

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大日本報徳社~二宮 尊徳(1787-1856)とその弟子達~

その64 西郷隆盛、渋沢栄一 ~報徳仕法を語る~(令和2年3月1日)

馬、甲冑姿の男の子、お雛様、ぼた餅、菱餅、梅の花などが並ぶ帯状の画像

明治4年(1871)7月、明治政府はすべての藩を廃し県とする廃藩置県を実行し、中村藩は中村県となりました(11月2日に中村県は平県に編入され、同29日に磐前いわさき県と改称し、明治9年に福島県に合併)。これにより、度重なる飢饉により疲弊した農村を復興するため中村藩が行ってきた報徳仕法は藩営として実施することができなくなりました。

そのため、富田高慶とみたこうけいをはじめとする報徳仕法を主導してきた人たちは、旧中村藩領内で報徳仕法を継続するために多くの明治政府の要人と会談しています。今回は、明治という新しい時代に活躍した誰もが知っている有名人と報徳仕法のエピソードを紹介します。

報徳仕法について「その22 報徳仕法ってどんなこと?」をご覧ください。

富田高慶と西郷隆盛の会談

富田高慶日記の原本とその解読文の写真

この写真は、明治5年(1872)3月13日に、参議という明治政府の要職にあった西郷さいごう隆盛たかもりと面会したことを記した富田高慶の日記の一部です。西郷に面会した富田が報徳仕法の継続を訴え、西郷がその支援を約束したことが記されています。しかし、具体的な会談の内容はこの日記には記されていません。

このころ、富田は報徳仕法を継続させるため、多くの政府要人と面会していました。その一人が西郷隆盛だったのです。

この時のエピソードは、富田の事績を紹介した『富田高慶とみたこうけい翁伝おうでん』(大槻吉直 明治30年)や『さい民記みんき』(吉田宇之うのすけ明治34年)などさまざまな資料に記されています。資料によって多少の違いはありますが、おおむね次のような内容だったようです。

・富田は西郷に報徳仕法の詳細を説明し、感服した西郷は将来全国へ実行されることを希望し、斡旋あっせんなど協力を約束した。

・西郷は、報徳仕法を磐前県と鹿児島県の両方から推し進めて全国に展開する考えを富田に伝えた。

もともと水戸藩の藤田ふじた東湖とうこから報徳仕法のことを聞いていた西郷は報徳仕法に興味をもっていたようです。そして、二宮尊徳に会うことはできませんでしたが、報徳仕法を継ぐ富田との面会を希望していました。

富田との面会後、大蔵省に相談するのがよいと考えた西郷は、当時大蔵省の三等出仕(少輔しょうゆなみ)だった渋沢栄一の自宅を訪ねました。この時の西郷と渋沢のやりとりが『渋沢栄一伝記資料』第3巻(渋沢栄一伝記資料刊行会 1955)に収録されています。ここには、明治5年(1872)ころのこととして当時を懐かしむように、渋沢が語っているようすが収録されています。

渋沢栄一の懐古談

西郷隆盛のイラスト

明治維新の立役者のひとりであり明治政府の中枢にいた西郷隆盛が、大蔵省の一官吏に過ぎなかった渋沢栄一の自宅をわざわざ訪ねてきたのです。

そのことに驚きつつも、渋沢は「大西郷」と呼ばれるほどの人物に自分の考えを伝えるよい機会だと考えたのか、旧中村藩の報徳仕法を継続してほしいと頼んだ西郷に対して、今は日本全体の報徳仕法が必要であり旧中村藩のみ実施することはできないという持論を展開しました。

当時、大蔵省は財源不足にもかかわらず、各省からの予算要求に四苦八苦していました。そのようななかで、経費に一定の限度額を設定する報徳仕法の仕組みについて、渋沢はある程度調べていたようです。報徳仕法の仕組みを西郷に説明したうえで、限度額も定めず大蔵省へ過大な予算要求ばかりをする各省の政治姿勢に対して皮肉を言ったのです。

渋沢栄一のイラスト

黙って渋沢の持論を聞いていた西郷は、「今日は頼みにきただけなのに、叱られてしまった」とどこか愛きょうのある言葉を残して帰りました。

後日、報徳仕法が廃止となったことに触れて「お前がやってくれないからだ」などと、西郷から不満の手紙が届いたようですが、渋沢自身は西郷の人柄や器量に惹かれていたことや、この時のやりとりを少し自慢げに周囲に語っていました。

その後の報徳仕法

廃藩置県直前の明治4年4月、明治政府より中村藩内での報徳仕法の継続が認められましたが、7月の廃藩置県や明治6年(1873)の地租改正などにより状況は大きく変わりました。富田高慶たちは磐前県でも引き続き報徳仕法を実施できるよう活動を続けました。西郷隆盛をはじめとする明治政府要人との交渉はこのころのことです。

雲岳が描いた富田高慶の肖像画

残念ながらこれらの活動は実らず、報徳仕法は継続されませんでした。しかし、明治10年(1877)には結社「こう復社ふくしゃ」が設立され、その設立発起人には富田をはじめとする報徳仕法継続のため中心的な役割を果たした人たちが名前を連ねました。

興復社の初代社長には富田が、副社長には二宮尊徳の孫であるそんしんが就任し、報徳仕法の理念は興復社に引き継がれることになりました。

(あ)

馬、甲冑姿の男の子、お雛様、ぼた餅、菱餅、梅の花などが並ぶ帯状の画像

関連ページ

南相馬市博物館

富田高慶(とみた こうけい/たかよし、1814年7月17日文化11年6月1日) - 1890年明治23年)1月5日)は、相馬中村藩士である。陸奥相馬中村藩士・齋藤(富田)嘉隆の次男。通称は久助。字は弘道。任斎と号する。二宮尊徳の娘婿。

藩世継の相馬充胤の近侍となるが、藩復興の志のもと江戸に出る。1839年(天保10年)6月1日、入門。4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。尊徳の片腕として活躍し、1852年(嘉永5年)に尊徳の娘・文子と結婚するが、翌年出産で帰った実家にて母子ともに亡くなった。日光仕法、相馬仕法に従事した。相馬仕法は尊徳の代理として、1845年(弘化2年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。1869年(明治2年)、相馬中村藩家老上席および政治総裁となった。廃藩置県後は、1877年(明治10年)に興復社を設立し社長となった。また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。1890年(明治23年)、77歳で没する。二宮尊行の次男の高英を婿養子とした。

1908年(明治41年)、従五位を追贈された[1]

脚注

  1.  田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.25

参考文献

福島県相馬市ホームページ - 相馬の歴史 - 歴史講座 - 御仕法 - 第4回

岡田良一郎 おかだ-りょういちろう

1839-1915 明治時代の農政家。 天保(てんぽう)10年10月21日生まれ。岡田佐平治の長男。日光で二宮尊徳の塾にまなぶ。明治11年父の跡をつぎ遠江国(とおとうみのくに)報徳社(のち大日本報徳社と改称)の社長となる。25年掛川信用組合を設立。静岡県会議員をへて,23年衆議院議員(当選2回,自由党)。私塾冀北学舎をひらき人材をそだてた。大正4年1月1日死去。77歳。遠江(静岡県)出身。著作に「報徳富国論」など。

朝日日本歴史人物事典の解説

岡田良一郎

没年:大正4.1.1(1915)
生年:天保10.10.21(1839.11.26)
幕末明治期の報徳運動家,政治家。遠江国佐野郡倉真村(掛川市)の豪農岡田佐平治の長男。名は清行,字は廉夫,号淡山。安政1(1854)年14歳で二宮尊徳に入門,5年まで日光で尊徳とその子尊行に師事する。帰村後報徳運動に従事,明治8(1875)年,父の跡を継いで遠江国報徳社(44年に大日本報徳社と改称)社長となり,45年に辞任するまで36年間その地位にあって報徳運動を指導した。政治面では明治6~8年浜松県出仕ののち,浜松県民会・遠州州会議長として地租改正の結果を不満とする遠州人民を代表して交換米取り消し,地価修正運動を推進する。静岡県民会議長,佐野・城東郡長,静岡県会議員を経て,23年衆議院議員となり大成会に属したが,30年政治活動から引退。実業面では自身の建議や指導によって設立された産業・金融機関に関与。11年の資産金貸付所総括,二俣紡績会社設立事務取扱,掛川銀行頭取,資産銀行取締役を歴任,25年には日本で最初の信用組合である掛川信用組合理事長に就任した。また,冀北学舎,農学社を設立し,教育,農業知識普及にも努めた。<著作>『淡山論集』全4巻<参考文献>海野福寿『岡田良一郎年譜』,海野福寿・加藤隆編『殖産興業と報徳運動』

(海野福寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

渋沢栄一の思想

営業人.com代表 安藤 雅旺
小山正太郎画「論語と算盤とシルクハットと刀の絵」渋沢史料館蔵

この絵は渋沢栄一が古希(70歳)の祝いの際に友人である小山正太郎から贈られた色紙です。

まさに渋沢栄一の生き方を象徴する絵であります。

この絵に書かれている文章は漢学者であり東京帝国大学教授、二松学舎の創設者三島中洲が寄稿したもので「論語を礎として商業を営み算盤を執りて士道を説く 非常の人、非常の事、非常の功」とあります。渋沢栄一はこのことについて著書『論語と算盤』の中でこう述べています。

ある時私の友人が、私が七十になった時に、一つの画帳を造ってくれた、その画帳の中に論語の本と算盤と、一方には「シルクハット」と朱鞘の大小の絵が描いてあった、一日学者の三島毅先生が私の宅へござって、その絵を見られて甚だおもしろい、私は論語読みの方だ、おまえは算盤を攻究している人で、その算盤を持つ人がかくのごとき本を充分に論ずる以上は、自分もまた論語読みだが算盤を大いに講究せねばならぬからおまえとともに論語と算盤をなるべく密着するように努めようと言われて、論語と算盤のことについて一つの文章をかいて道理と事実と利益と必ず一致するものであるということを、種々なる例証を添えて一大文章を書いてくれられた、私が常にこの物の進みは、ぜひとも大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは、決して進むものではない、ただ空理に走り虚栄に赴く国民は、決して真理の発展をなすものではない、ゆえに自分らはなるべく政治界、軍事界などがただ跋扈せずに、実業界がなるべく力を張るように希望する、これはすなわち物を増殖する務めである、これが完全でなければ国の富は成さぬ、その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができね、ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめる事が、今日の緊要の務と自分は考えているのである。

とあります。さらに著書『論語と算盤』では士魂商才に関する有名なくだりに続きます。

昔、菅原道真は和魂漢才ということを言った。これはおもしろいことと思う。これに対して私は常に士魂商才ということを唱道するのである。和魂商才とは日本人に日本特有なる日本魂(やまとだましい)というものを根底にしなければならないが、しかし中国は国も古し、文化も開けて孔子、孟子のごとき聖人賢人を出しているくらいであるから、政治方面、文学方面その他において日本より一日の長がある。

それゆえ漢土の文物学問を習得して才芸を養わねばならぬという意味であって、その文物学問は、書物も沢山あるけれども、孔子の言行を記した論語が中心となっておるのである、(中略)士魂商才というのも同様の意義で、人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上からも自滅を招くようになる、ゆえに士魂にして商才がなければならぬ、その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、やはり論語は最も士魂養成の根底となるものと思う。

それならば商才はどうかというに、商才も論語において十分養えるというのである、道徳上の書物と商才は何の関係がないようであるけれども、その商才というものも、もともと道徳を以て根底としたものであって道徳を離れた不道徳、欺瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才人、小悧口であって、決して真の商才ではない、ゆえに商才は道徳と離るべかざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養えるわけである。

 士魂と商才の両面をしっかり鍛えていかなければならないことが述べられています。またその両面を磨くためにもっとも有効なものが『論語』であると示されています。…

長岡の人々と渋沢栄一 : 『渋沢栄一伝記資料』の記述から ...


論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎 画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。」(第41巻p255、『竜門雑誌』 ...

 最後にご紹介するのは福島甲子三(かしぞう)と小山正太郎です。福島は栄一の抜擢で東京水力電気および東京瓦斯で活躍後、郷里の宝田石油の専務取締役となりました。そして彼が栄一の古希祝に贈った画帖の中の絵は、長岡出身の画家・小山の作品でした。「論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。」(第41巻p255、『竜門雑誌』第519号 山田済斉の演説より)

﹃ 論 語 古 義 ﹄ の 注 釈 方 法 に つ い て 培


論語古義』学而篇第二章の解釈の試み―」が存在するとはいえ、これも仁斎の解釈の内容に拘泥する. 傾向があった。 ... (9) 中山久四郎「考証学概說」 六頁( 東京·岩波書店、福島甲子三編「近世日本少儒学』所取、一九八四年二月第三副). 參照。

シンクタンク・ザ・リバーバンク - なぜいま 渋沢栄一?:日本 ...

... 新聞「読むヒント」掲載! リバーバンクRリポート28号に「渋沢栄一と長岡の人々」特集。 時代の必然でしょうか! 「論語と算盤」は、渋沢栄一の友人: 長岡出身・福島甲子三が渋沢の古希の祝いに送った小山正太郎の「絵が原点です。

『學 vol.54』特集:渋沢栄一 ~受け継がれる「論語と算盤 ...

それを「論語と算盤」という言葉で語るようになったきっかけになったのが、 この絵です。 論語と算盤図/小山正太郎画(渋沢史料館蔵). 安岡 有名な絵ですね。 井上 渋沢が明治42年に古希を迎えた際、ほとんど関係していた企業の役員を ...

中野剛志2020

日本経済学新論

あとがき

 この「日本経済学」の伝統を、我々は継承するだけではなく、改善し、発展させていかなければならない。例えば、貨幣論は「日本経済学」の弱点であった。渋沢は金属主義に囚われており、また、高橋と下村は信用貨幣論者ではあったが表券主義という理解を欠いていた。しかし、「日本経済学」に表券主義を導入するのは理論的に難しくない。なぜなら、表券主義は、ドイツ歴史学派に属するゲオルグ・F・クナップやジョン・M・ケインズなど、「日本経済学」と親和性の高い理論家たちの貨幣論だからだ。したがって、「日本経済学」は、表券主義や現代貨幣理論の成果を容易に取り込んで、自らをさらに発展させることができるだろう。それは、現代貨幣理論を生産力の理論によって補完するということでもある。

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https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=519079&page=1&id=47498256

どうも気になることがあると落ち着かないたちで。 
ご存じの方がいらっしゃったらお知恵をお貸しください。  

二宮尊徳翁が  

「道徳のない経済は罪悪である。経済のない道徳は寝言である」  

という意味の言葉を残されているらしいのですが、どこを探してもその原典が見当たりません。僕の探し方が悪いのか、それともこの言葉自体が独り歩きしている「詠み人知らず」の浮遊する言説なのかが、ぜひ知りたくなりました。  

くり返しになり恐縮ですが、お詳しい方がいらっしゃったらご解説願えませんでしょうか。  
甘えたお願いで申し訳ありません。 
よろしくお願いします。

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麻生太郎

https://www.instagram.com/reel/DJGUOLeoPWs/?igsh=bGNkaGE3eXlsbnB4 🌸上城 孝嗣 / 量子力学 / 因果の法則 / デザイン / 願望実現支援 - Instagram: "国民を騙し続ける政府 財務省に...