columnI-9 日本の戦後復興
columnI-9 日本の戦後復興
第2次大戦後、日本は、米国や世界銀行をはじめとする国際社会からの支援・融資を受けながら、自助努力の精神に基づき、戦禍で疲弊した国土の再建に努力しました。日本のこのような経験は、その後の日本の東アジア支援の経験に裏打ちされ、自助努力支援という日本の援助哲学の基本を形成したことはよく指摘されているところです。
米国からの救済・復興支援
第2次世界大戦の終結当時、米国は世界で最も大きな援助供与能力を有していました。米国は占領地域に対して、ガリオア(占領地域救済政府基金: Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)、エロア(占領地域経済復興基金: Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund)という2つの基金を持っており、日本は、これらの基金から救済・復興支援を受けました。日本に対しては1946年よりガリオア基金、1949年からはエロア基金の2つを通じて合計18億ドル(現在価値で約12兆円相当、内13億ドルは無償)が供与されました。これらの見返り資金注)は通貨安定、国鉄、電気通信、電力、海運、石炭などインフラをはじめとする経済復興用低利融資の原資となりました。
世界銀行の融資
1945年の第2次世界大戦終結に先立ち、連合国内では大戦後の世界経済のあり方と復興支援について検討が進められ、1944年7月、連合国44か国が参加し、ブレトン・ウッズ協定が締結されました。大戦で疲弊した世界経済はこの協定のもとに復興がはかられ、1945年に創設された国際通貨基金(IMF: International Monetary Fund)と国際復興開発銀行(IBRD: International Bank of Reconstruction and Development、通称世界銀行)がその中心的役割を担うこととなりました。日本は、1953年より世界銀行の借款受入を開始し、1966年までの間に、計34件、合計8億6,290億ドルの借款契約を締結しました。
当時の日本は復興のための資金が不足しており、世界銀行の融資は戦後の日本経済発展の基礎となった重要なインフラ及び基幹産業、特に道路、電力、鉄鋼各セクターの整備に大きく貢献しました。例えば、黒部第四水力発電(黒四ダム)、愛知用水、東海道新幹線、東名・名神高速道路などは世界銀行の融資により建設されました。
日本は1954年から援助を開始していますが、海外に援助をしながら世界銀行の借款を受け入れ、自らの経済発展の基礎を築き上げたのです。1966年の東京-静岡間高速道路へ供与を最後に、日本は世界銀行の借款から卒業し、その後は主要な援助国として成長していくことになります。日本がこれらの世界銀行の債務を完済したのは、1990年7月と、比較的最近のことです。
日本が今日において、多様な援助形態の重要性を主張し、特に、他の援助国とは異なり、円借款という譲許的な借款という援助形態を有効に活用していることの背景には、まさに日本が世界銀行から受けた支援の有効性の経験があるわけです。
注:商品援助により被援助国が購入した商品の売却益。ここでは、ガリオア、エロア基金により購入された物資の売却益のことを指す。


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